小田原城の発祥〜大森氏の時代 小早川氏や土肥氏などの居舘として、 鎌倉時代からお城があったと言われてきたようですが、 はっきりした事は解っておりません。 応永24(1417)年に上杉禅秀の乱後、 駿河の駿東郡の大森氏が勢力を小田原まで伸ばし、 現在の八幡山の位置に城を築いたと言われます。 『相中雑志』によれば、現在の城源寺は、 大森氏の花岳城の跡を号したと書かれています。 位置は少し違い谷津地区のようですが、 初期の小田原城はこの位置だった可能性もあります。 |
![]() 山ノ神台から城址を望む |
![]() 北條早雲像 |
北條早雲(伊勢盛時)の出現 明応4(1495)年、(永正1年1504年の説も有り)には、 後の北條早雲こと伊勢盛時が火牛の計で、 大森氏より小田原城を奪取します。 永正15年(1518)年2代目氏綱の代になると、 伊勢から北條へと改姓、本拠地は小田原城となるなど、 北條氏の関東領国支配の基盤を固めます。 以降北條氏が滅亡するまで、 小田原城は関東の政治の中心部として機能することになります。 |
関東三国志 3代目北條氏康から4代目氏政の代にかけて、 関東は北條上杉武田の3氏で争う事になります。 俗に関東三国志と言われ、 永禄4(1561)年には後の上杉謙信こと長尾景虎が、 総勢11万人と言われる大軍で小田原城に押し寄せます。 又、永禄12(1569)年には武田信玄が押し寄せ、 幸田門から進入を許し二の丸付近まで攻め込まれますが、 小田原城はどちらも撥ね退け、難攻不落の城の名を 天下に揺ぎ無いものにしました。 この相次ぐ来攻の反省から、 小田原城はさらに拡大されます。 |
![]() 幸田門跡 |
![]() 小田原城天守閣から石垣山一夜城を望む |
小田原北条氏の終焉 天正15(1587)年の頃になると、 豊臣秀吉が天下をほぼ手中に収め、 秀吉の圧力が小田原北條氏に迫ります。 秀吉の来攻に備え小田原城は城下町まで拡大。 これが全長と9kmにも及ぶ大外郭で、 この普請は天正18(1590)年までかかります。 秀吉は22万の大軍を率い小田原城を包囲しますが、 力では攻め落とす事ができませんでした。 よって小田原城を見下ろす事が出来る笠懸山に、 石垣山一夜城を築き、 あたかも一夜にて築城したかのように見せつけました。 これに驚いた北條氏は開城を決意し、 約100年近く続いた北條氏の時代は終焉を迎えます。 |
前期大久保氏の時代 北條氏が小田原を去った後、 城主になったのは徳川家康の家臣、大久保忠世でした。 大外郭及び八幡山の古郭は使用停止となり、 現在の城址公園側の本丸から三の丸にかけて、 石垣や瓦屋根などを用いた近代的なお城として、 小田原城は生まれ変わります。 文禄3(1594)年に6万5千石で城主となった 大久保忠隣は慶長19(1614)年に改易となり、 幕府は二の丸三の丸の櫓石垣門などを破壊します。 |
![]() 大久保氏の墓所 |
![]() 稲葉氏の墓所 |
番城〜稲葉氏の時代 大久保氏が改易後は阿部正次が5年城主となりましたが、 以降は幕府の番城となり、交代で城代が置かれます。 この頃、2代目将軍秀忠の隠居城とする計画が、 持ち上がりますが実現しませんでした。 寛永9(1614)年稲葉正勝が8万5千石で城主となり、 寛永10(1633)年の大地震後、城の近代化が進み、 寛永20(1643)年稲葉正則の時代には、 二の丸櫓が認められ正保4年(1647年)に完成します。 寛文12(1672)年には二の丸三の丸の修復を申請、 延宝3(1675)年に完成します。 稲葉氏の時代は稲葉正通が貞享2(1685)年、 高田に転封するまで続きます。 |
大久保氏の復活 貞享3(1686)年大久保氏の宿願がかない、 大久保忠朝が小田原に入封します。 この大久保氏の時代は幕末まで続きますが、 この時代は災害と復興の時代でもありました。 元禄16(1703)年には大地震により、 石垣が崩れ天守をはじめほぼ全焼します。 宝永4(1707)年には富士山の噴火、 天明2(1782)年には大地震により天守閣が傾き、 天命5(1785)年に天守を引き起こし復旧します。 嘉永3(1850)年から嘉永5(1852)年にかけて、 韮山代官江川英龍の指導で海岸に台場が築かれます。 嘉永6(1853)年には大地震の被害を受けます。 |
![]() 小田原城天守 |
![]() 関東大震災で崩れ落ちた本丸の石垣 |
明治維新後 明治3(1870)年、小田原城は廃城となり、 天守閣、櫓などは売却され解体されます。 明治34(1901)年には二の丸御殿跡に、 御用邸が建てられますが、 関東大震災の被害後に廃止となります。 震災の被害は甚大で石垣は殆ど崩れ落ちました。 昭和3(1928)年には住吉掘が埋め立てられ、 高等女学校などが建てられます。 昭和13(1938)年には、 小田原城が国定史跡の認定を受けます。 |
蘇える小田原城 現在は『城址公園』として整備が進められています。 昭和35(1960)年には天守が再建。 昭和46(1971)年には常盤木門が再建。 平成元年(1989)年には住吉堀が再建。、 平成9(1997)年には銅門が再建。 平成18(2006)年には『日本の歴史公園100選』に選ばれ、 平成21(2009)年には馬出門が再建されました。 今後も小田原城は本丸と二の丸を中心に、 再建100年構想として蘇えります。 |
![]() 馬出門 |