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相模国における歴史的鋳物文化の研究
相模国において鋳物作品が最初に見られるのは、承安2年(1172年)相模武士達の信仰をあつめた伊豆山権現の裏山で発掘された、下毛利庄藤原景行と銘が刻まれていた和鏡でした。
次いで、鐘名を飯山金剛寺資僧覚然が書した極楽寺梵鐘(亡失)があります。
この頃より毛利庄飯山(現在の厚木市飯山)において鋳物が行われていたものと推定されます。それを裏付けるものとして、
県内に現存する最古の鐘として嘉禄3年(1227年)座間市にある星谷寺に、鋳工「源吉國」と陽鋳された梵鐘があります。
”源”姓のつく鋳物師の活躍は、源吉國から源光弘が鋳造した武蔵州崎大明神の梵鐘まで140年近くにわたる足跡を残し、 源光弘の梵鐘には「治匠相州
源光弘の梵鐘には「治匠相州飯山源光弘」とあります。
源姓の鋳物師に見られる意匠の共通性や、所在地「飯山」とあることから、相模国におれる鋳物は平安の末期から始まり、彼らは毛利庄飯山(現厚木市飯山)を本貫とする鋳物師であったと推定されます。
その後、鎌倉の地に幕府が創設されたことにより、鎌倉の大仏を始めとして多くの寺院が各地に建立されたことにより、鋳物需要が高まり河内国に本貫を持つ鋳物師がおおく来住しました。
源姓より少し遅れて登場する「物部姓」の鋳物師も河内を本貫としています。
物部重光は丹治久友らと共に長谷大仏の鋳物師棟梁として活躍としたとみられ、その後、「物部姓」の鋳物師らは建長寺・円覚寺等の有力寺院の梵鐘を手がけ、およそ110年の足跡を残した東国を代表する鋳物師集団でした。
次に物部氏よりも58年遅れ、「清原姓」の鋳物師集団が作品を生み出します。彼らも大和権守、河内権守等々を名乗り、物部氏に代わる相模の代表的鋳物師集団でした。 清原姓より遅れること85年、
氏名につね「経・常・恒」と読む鋳物師集団が現れます。活動範囲は伊豆山権現に梵鐘・仏像などを残しているものの相模が活動の中心でした。宝徳4年(1452)大工和泉守恒国が鋳た相模国妙高寺の梵鐘を最後におよそ65年の活動を閉じます。
毛利庄飯山は、相模の地にて初めての作品を産みだし、平安の末期からおよそ300年の長きにわたり、相模国鋳物師の本貫として南関東までその作品を残した東国の一大生産地でありました。
また、14世紀における相模国における梵鐘生産数は、朝廷が直轄する多くの鋳物師集団を有する日本鋳物発祥の地、河内を抜いて日本一の鋳物生産地となりました。
後北条が、関東支配が進むのにともない、相模国における鋳物の生産拠点は、飯山から後北条の城下小田原へと移っていきます。
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