小田原鋳物研究所
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(1)相模の国における鋳物歴史文化の研究
  (小田原鋳物歴史文化の研究)

(2)人の心に心地よさを与える ”癒しの音”

(3)精密鋳物の工法と作品紹介

(4)風鈴設計製作と鋳物特注品の製作

(5)親子物作り教室

(6)小・中学校出前授業

(7)公開講座

(8)講演会

(9)梅祭り

(10)鋳物販売

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アクセス 
 

 〒  250-0206
住 所  小田原曽我原241
代表者    上島
電 話  0465(42)1937
メール kami27@mj.scn-net.ne.jp
  



相模国における歴史的鋳物文化の研究

相模国において鋳物作品が最初に見られるのは、承安2年(1172年)相模武士達の信仰をあつめた伊豆山権現の裏山で発掘された、下毛利庄藤原景行と銘が刻まれていた和鏡でした。  次いで、鐘名を飯山金剛寺資僧覚然が書した極楽寺梵鐘(亡失)があります。  
 この頃より毛利庄飯山(現在の厚木市飯山)において鋳物が行われていたものと推定されます。それを裏付けるものとして、 県内に現存する最古の鐘として嘉禄3年(1227年)座間市にある星谷寺に、鋳工「源吉國」と陽鋳された梵鐘があります。 ”源”姓のつく鋳物師の活躍は、源吉國から源光弘が鋳造した武蔵州崎大明神の梵鐘まで140年近くにわたる足跡を残し、
源光弘の梵鐘には「治匠相州 源光弘の梵鐘には「治匠相州飯山源光弘」とあります。 源姓の鋳物師に見られる意匠の共通性や、所在地「飯山」とあることから、相模国におれる鋳物は平安の末期から始まり、彼らは毛利庄飯山(現厚木市飯山)を本貫とする鋳物師であったと推定されます。  その後、鎌倉の地に幕府が創設されたことにより、鎌倉の大仏を始めとして多くの寺院が各地に建立されたことにより、鋳物需要が高まり河内国に本貫を持つ鋳物師がおおく来住しました。 源姓より少し遅れて登場する「物部姓」の鋳物師も河内を本貫としています。 鎌倉時代を代表する円覚寺梵鐘 物部重光は丹治久友らと共に長谷大仏の鋳物師棟梁として活躍としたとみられ、その後、「物部姓」の鋳物師らは建長寺・円覚寺等の有力寺院の梵鐘を手がけ、およそ110年の足跡を残した東国を代表する鋳物師集団でした。 次に物部氏よりも58年遅れ、「清原姓」の鋳物師集団が作品を生み出します。彼らも大和権守、河内権守等々を名乗り、物部氏に代わる相模の代表的鋳物師集団でした。
清原姓より遅れること85年、 氏名につね「経・常・恒」と読む鋳物師集団が現れます。活動範囲は伊豆山権現に梵鐘・仏像などを残しているものの相模が活動の中心でした。宝徳4年(1452)大工和泉守恒国が鋳た相模国妙高寺の梵鐘を最後におよそ65年の活動を閉じます。 毛利庄飯山は、相模の地にて初めての作品を産みだし、平安の末期からおよそ300年の長きにわたり、相模国鋳物師の本貫として南関東までその作品を残した東国の一大生産地でありました。  また、14世紀における相模国における梵鐘生産数は、朝廷が直轄する多くの鋳物師集団を有する日本鋳物発祥の地、河内を抜いて日本一の鋳物生産地となりました。 後北条が、関東支配が進むのにともない、相模国における鋳物の生産拠点は、飯山から後北条の城下小田原へと移っていきます。
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<小田原鋳物歴史文化の研究>
神奈川の西に位置し、箱根の玄関口である小田原は古い歴史と文化を持つ静かな城下町です。小田原城から東へ数キロ隔てた所に、富士山や丹沢連峰を源とする酒匂川が、 豊かな川面をたたえ相模湾にそそいでいます。ここ小田原に、今からおよそ470年前の戦国時代、金属を溶かし型に流し込んで作品を作る鋳物業が始まりました。 小田原は戦国時代から江戸まで相模国における鋳物の中心的位置を占め、東国を代表する鋳物生産地でありました。その歴史をたどれば、平安末期に、毛利荘飯山(現厚木市飯山) の鋳物作品を初めて見ることができます。  幕府が鎌倉に創立されると、鋳物需要は飛躍的に増え、相模国の鋳物は隆盛を極めます。 時代が移ると権力者も代わり、その影響を受け活躍する鋳物師は変わっていきます。小田原の鋳物はまさにその象徴であり、戦国時代後北条が関東を支配する頃、 小田原の城下に河内を本貫とする鋳物師が来住いたします。 小田原の鋳物師は後北条氏の手厚い庇護を受け、日常品である鍋・釜から武器に至るまでの生産を行い、後北条の期待に応えていきます。


上の古文書は、北条家朱印状であり天正17(1589年)豊臣方との戦いを前にして、相模の鋳物師に大筒製造命令を厳命した内容である。

  天正の末期には、豊臣秀吉との戦いを前に、次第に軍事的色彩が強くなり鉄砲・大筒等の武器が生産されていきます。豊臣方との戦いに破れ、小田原鋳物師の痛手は大きいものがありましたが、江戸に入り民衆の需要の高まりに支えられて、多くの鋳物師が小田原 に集まり、口伝によると、鋳物師の家々から出る炎が夜空を赤々と焦がすほど盛んでした。明治以降は、時代の荒波にもまれ、日用品から工業製品に至るまで作っていた小田原の鋳物は、 キューポラのある街で知られる川口などに次第に押され、作られる作品は鳴り物、美術品、茶道、華道具等々へと移り、鋳物師も一人消え二人消え、現在は鋳物工房一軒を残すのみとなりました。



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購入先は、
NPO法人小田原鋳物研究所
小田原市曽我原241番地
 問い合わせ 
090−5759−2288上島まで

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