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■色のない空募金の運営者から一言 (最終更新日:2004/9/29) |
●主催者 久郷ポンナレット 目標に達成するまでだいぶ時間がかかると思いますが、時間をかけて色々な方々に活動を知って頂く過程こそ大事だと思いますので、ゆっくり活動していこうと考えております。 この基金が、強い生命力を与え・育んでくれた『祖国と亡き仲間たちへの償いと感謝の印』となれば、この上ない悦びです。 遺骨の掘り出しについて。 遺骨の掘り出しには、地元住民(旧住民)の協力を得ようと考えております。 無料とは言いません、日当を払ってでも、場所の確認や掘り出しに、協力して欲しいのです。 地元の彼らこそ当時の政府(ポル・ポト)側の立場で、プノンペンから来た人を新住民として扱い、時に差別や虐殺に手を貸した人々です。 旧住民に少しでも汗を流してもらうことで、生き残った者としてどこかで納得できる面もあります。 過去の清算は、カンボジアの未来にとっても必要です。 本来、都会の人と農村の人は、憎しみ会う必要は無かったのですから……。 |
●京(日本人。HP作成に協力)
最初にポンナレットさんから「遺骨を掘りかえして納骨したい」という話を聞いた時、初めて、 内戦から逃れて約25年経った今でも、彼女の中では内戦は終わっていないことを知りました。 普段の彼女は明るく、カンボジア人であることや難民として日本へ来たという苦労を感じさせない。 どちらかというと「子育てに奮闘しているお母さん」というイメージしかなかった。 そんな彼女のずっと内に込めていた願いを聞き、お手伝いしようと思ったのです。 カンボジアには何度か旅したことがあります。 カンボジアの遺跡、人々との出会い、おいしい料理など、楽しい旅の思い出と共に、 内戦での戦没者の惨劇、無惨な死、博物館などで見聞きした暗い歴史についても、私の胸に深く刻まれてきました。 亡くなった方々の無念の思いが偲ばれ、胸がつまることもありました。 (日本の戦争とカンボジアの内戦とでは、背景が全く異なりますが、 その時の政府の思惑により亡くなったという点では同じ被害者であると捕らえ、以下を記述します。) 日本では厚生労働省が主体となって海外の戦没者の遺骨収集を行っています。 広島市は平和記念公園や博物館を整備しているし、有志の方によって沖縄の共同墓地も作られています。 しかし、カンボジアではまだ遺骨を収集して展示している場所はあっても、共同の納骨堂のような物はありません。 日本の戦没者を弔っている有志の方々は、遺族の方であったり、戦時中に友を失った人がほとんどです。 同様に、カンボジアでもポンナレットさんのような被害者が生きているうちでなければ、遺骨収集は叶わないかもしれないし、 加害者が生きて証言してくれなければ、山野に埋められた遺骨は見付からないかもしれない。 今始めなければ、間に合わないのです。放置したままではいられない。 日本では終戦7年後には、遺骨収集が政府によって行われています。 カンボジアの内戦が終了したのは1998年。まだ遺骨収集や納骨堂建設といった話は、カンボジア政府からは話がない。 収集されたご遺骨を安置する方法やあり方について、現カンボジア政府が本当に悼む気持ちがあるのなら、 もっと議題に挙がってもいいのではないでしょうか。 この活動がいずれ複数のカンボジア人の心を動かして、広く語られる機会があればいいと、心から願っています。 |
●中村(日本人。募金活動に協力) 日本が第二次大戦終結後他国の手本とも言うべき発展を遂げた理由を考えると、単に奇跡と思う方、 勤勉な国民性と資質によるものと思う方、アメリカの援助の御蔭と思う方、喧々諤々論議は尽きないかと思いますが、 日本に対し戦勝国となった国々が賠償放棄と日本の国際舞台への復帰が早くに行われたことが最大の要因かと私は考えています。 そのことが正反対に行われた第一次大戦後のドイツは途方もない賠償金の支払いで国内経済は疲弊し、 結果的に極右的なナショナリズムが台頭し再度世界大戦に突入してしまいました。 この二の舞にならずに済んだのは日本にとって非常に有難い事でした。その賠償放棄の先鞭をつけて下さったのがシハヌーク国王でした。 日本が進出したことによりカンボジアはフランス統治からの独立を果たし、日本が退却したことによりフランスの再統治が始まりました。 そのような経緯からか日本が国際連合に加盟する際に真っ先に支持してくださったのがカンボジア国でした。 以上の二点は日本であまり知られていないような気がするのですがこの文をお読みになっている皆様は如何でしょうか? そして日本が高度成長期を謳歌している頃、独立間もないカンボジアでは東西冷戦と中ソ対立の国際情勢の下大国の圧力に翻弄され 隣国のヴェトナム戦争の火の粉を見事に被り、国内も都市と農村の貧富の格差に苛まれ、 難しい舵取りに国王は風見鶏と揶揄されましたが、では他の誰が国の内外を安定させることが出来たのでしょうか? その後、親兄弟を一人も失わなかった方が誰一人としていないような悲劇の時代が続いてしまいました。 UNTAC以降カンボジアも復興し日本人間観光客も年を追うごとに増えてきましたがインフラの整備も儘ならず 援助と言うとまず学校建設や道路港湾の整備、衛生の向上、技術指導となってしまいます。 確かにこのような援助、そして観光も大事です。 外国や異文化を理解するにははまず見てみることが大切で、見て触れてみないとなにも感じないのではないでしょうか? 援助もまず何が必要なのか見てみることが肝要です。 私も海外を旅した国はそれ以前よりも関心が増し理解も些かではありますが理解が増したと思います。 そのうえでこの国のために何かをしたいという方へ。 教育の向上、社会基盤の整備は大事です。でもその為の協力は他にあります。 ポンナレットさんは自国民がいがみあって殺しあったことをお互いに赦しあい、認めあって、悲劇の時代に亡くなられた方の 魂を慰み、この悲劇を子々孫々まで伝え、歴史を繰り返さないようにと慰霊塔の建立を発起されたのです。 ポルポト時代から早四半世紀以上過ぎ国民の過半数が未成年者と云う現状から今が慰霊塔を建立する絶好の機会なのです。 あと四半世紀が過ぎたら悲劇を伝える語り部も殆どいなくなるでしょうし、少なくとも10年経てば被災した方も 高齢化が進みポンナレットさんを含め人が動けなくなるでしょう。 準備を開始してから完成までに日本では考えられないような時間がかかるかも知れません。 それでも今から一歩一歩動かなければならない、そういう気質の彼女に私は賛同いたしました。 趣旨からも少数の人がいっきに進めるよりも多数の人が少しずつ、協力し合って、将来においてのカンボジア人の心の拠り所を 日本人が協力して建てることが出来たらこれ以上の喜びはありません。 都市と農村の貧富の格差がポルポト時代以前のようにまた拡がっています。同じ悲劇を繰り返さないように 「和」を尊しとする日本の心がカンボジアの安定に貢献できたら幸いに思います。 |
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