ホームへ


土屋氏一族について

 日本の歴史の幕開けが石器時代とするならば、その第二幕は縄文時代、第三幕は弥生時代、第四幕は大和飛鳥古墳時代、第五幕は奈良時代、第六幕は平安時代であったのではなかろうか。
そして、第七幕として、武家政権のはじまりを予告する日本の歴史上大事変が起こった。
それは、相模の武士団を中心とするクーデターであった。
   「平家にあらずんば人にあらず」といわれたくらい平家一族の繁栄は際立っていた。「栄枯盛衰」これは人の世の常であり、人の世の習いでもある。・・・・・・・・「此の世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたる事も無しと思えば」(藤原道長966〜1027.小右記)・・・・この歌を思い出すのである・・・・・・・・・・・・・。
「おごれる平氏」により、日本の国状は大きな転換期を向えていた。源家の嫡流として伊豆の蛭ケ小島に流されていた「源頼朝」を「担ぎ上げて」大芝居をぶちあげたのであった。
ここに、相模の武士のひとりとして登場する桓武天皇を祖とする「桓武平氏」の支流中村氏の一族は、大舞台に立ったのであった。
 相模川以西の、いわゆる西相模一帯の海岸沿い(現在の平塚市・大磯町・二宮町・中井町・小田原市・真鶴町・湯河原町等)の平野部に蟠踞した中村一族は、嫡男は本家の地元(現中井町)の地に、次男は土肥(現湯河原町)に、三男は土屋(現平塚市土屋)に、四男は二宮(現二宮町)にそれぞれ領地を拡大していた。また、女子もそれぞれ近隣の有力武士(三浦氏・伊東氏)と婚姻関係を持ち、勢力の拡大に一役かっていた。 これらの関係系図は、別に示したので参考にされたい。

なお、この「土屋氏の始祖」である「土屋三郎宗遠」について、「相州土屋三郎宗遠公甚句」でも唄われているので参考にしてください。

$土屋氏族に関してさらに研究されたい方は、土屋和之氏が作成されたHPをご覧ください。
        ”土屋氏のルーツを辿って/土屋氏の起源と伝承”へ
   土屋氏のご好意によりリンクさせていただいています。

 土屋の館跡(土屋氏の館)
  中世の館として遺していきたい
 土屋三郎宗遠一族の墓
  毎年五月八日に墓前祭が行われる
土屋三郎宗遠公像
(つちやさぶろうむねとお)



 ここに、土屋氏について簡単に解説します。

            1.中村氏のおこりとその一党
            2.土屋氏のおこり
            3.頼朝と土屋三郎宗遠・養子次郎義清
            4.土屋氏のゆくえ
            5.真田与一義忠のこと


1.中村氏のおこりとその一党
 この頃(平安時代末期)、酒匂川流域の足柄平野は、武士団の勃興とともに、自然の荒野がより一層開発される時期を迎えていた。酒匂川の上流一帯には、藤原秀郷を遠祖とする波多野氏出身の河村・松田氏が、また下流には平良文を祖とする中村氏の一族子孫が、さらにその中流には藤原氏系の山内首藤氏の一族その他幾多の武士団が開発領主としてそれぞれの地域に蟠踞した。
 治承四年(1180)8月23日源頼朝の石橋山旗挙げの際活躍した土肥次郎実平は、本来中村庄を本拠とする中村荘司宗平の子であるが、その子弥太郎遠平とともに早川から土肥へと次第に勢力をのばしていた。
 中村宗平の子に、世に現れた男子が四人あって、長男は太郎重平、次男は次郎実平、三男は三郎宗遠、四男は四郎友平といった。女子は二人あり、大住郡(現平塚市岡崎)の岡崎四郎義実(三浦氏出身)の妻となり、真田与一義忠と土屋宗遠の養子となった次郎義清を生んだ桂御前、もう一人は満江御前といい、伊東祐親の妻となり曽我兄弟の父である河津三郎祐泰を生んだといわれている。
 この中村氏の男四兄弟のうち、長男重平は父の後を継いで中村郷に留まったが、病弱で比較的早く世を去り、その子景平も弟の盛平も石橋山合戦に名を連ねたが、その後はあまり名が挙がらなかった。
次郎実平は、足柄下郡土肥郷に住んで,城を構えて土肥氏を名乗り、土肥次郎実平と称し次第に名を現すようになった。嫡男を弥太郎遠平といい、はじめ土肥弥太郎と称したが、後年になって土肥郷の東隣の早川荘(現小田原市早川)の地頭に任ぜられ、荘内の小早川村に城を築いて、小早川弥太郎と名乗るようになった。
三郎宗遠は、大住郡土屋郷(現平塚市土屋)に住み土屋三郎と名乗って、土屋氏を起こした。
四郎友平は、淘綾郡二宮郷に住んで二宮四郎と称し、二宮氏の祖となった。
 このようにして中村氏一党は、中村・土肥・土屋・二宮の四家、後に小早川氏を加え五家に分立した。いわゆる相模川以西の西相模の沿岸地帯に、一列雁行の姿で根拠を構えて経営に当ったので、頼朝の伊豆出現前にすでに一党は、相模国の新興武門として有名になっていた。
 新しい力に燃えていた兄弟であり、その箱根山一つ越えると、すぐ伊豆の武家たちとも交渉が深いので、燃え出んとして強い風雪のために、未だ芽をだし得ないで悩んでいる新興勢力の主源頼朝に同情し、早くから心を寄せて、忍びて奉仕を続けていた人々であるらしく、石橋山合戦後頼朝が宗平を重用し厚遇していたのでも、ほぼ察しられるところであるが、頼朝挙兵当時、宗平は相当の老齢に達していたので、彼は中村の郷を動かず、子供たちをして頼朝に尽忠させる態度をとっていた。しかも、重平は病をもって早世して、頼朝挙兵の時は、すでにこの世になかったので、孫の太郎景平と次郎盛平とを出陣させていた。
 したがって、中村一党を率いて活動するのは、次男の土肥実平と三男の土屋宗遠であったから、両名の名が有名になり「土肥・土屋の党」と呼ばれるに至った。
 話しは溯るが、十二世紀の初頭、鎌倉にて勢力をふるっていた源義朝は、威勢に任せて近隣へ乱暴を働いたが、ある年相模国府の在庁官人と語り合って、約一千騎の軍勢をもって、大庭の御厨に侵入し、さんざんに荒らしまわって都へ訴えられた。その中に三浦荘司や中村荘司の名が見えるが、この中村荘司は実平の父宗平の若き日の姿だったのかもしれない。
 ところが、このときの敵味方が、源頼朝の石橋山の合戦の時とちょうど同じように敵味方に分かれていた。頼朝を攻めた大庭景親や俣野五郎の与党は、頼朝の父義朝以来の恨みを晴らすつもりであったのだろう。

                ホームへ       トップへ

2.土屋氏のおこり
 中村氏のおこりでもふれたように、土屋三郎宗遠は桓武平氏支流中村宗平の三男として、大治三年(1128)に生まれた。
 宗遠が何歳の時かは不明であるが、ここ土屋郷に住みつき、郷士となり在名をもって姓とした。
居館を天台宗大乗院にほど近い、南に面した段丘に設けた。宗遠ははじめ男子が無かったので、三浦悪四郎義実(岡崎四郎義実)を父とし、宗遠の姉(桂御前)を母とする岡崎小次郎義清(真田与一義忠の弟)を養子に迎えた。宗遠の実子である新三郎宗光、忠光およびその子孫らは、鎌倉幕府の中期から滅亡期に生きた武士であり、父宗遠・兄義清と共に重用された人物であったが、御家人の争い(西浜事件・梶原事件・和田の乱・元弘の乱等)に巻き込まれ、土屋家およびその領内に対立と動揺があったことは事実であった。
 初代宗遠は、土屋郷に新しい文化と財産を遺したことは否定できない。熊野神社・大乗院・阿弥陀寺(現芳盛寺)・木舟神社・十二社権現等はその代表的なものである。また、新しい「むらづくり」に勤しんだ。谷戸の多い山間部を開墾して「谷戸田」を作ったことも見逃せない。
 治承四年(1180)には、頼朝の挙兵に馳せ参じ、石橋山以降幾多の業績を残した。建久三年(1192)鎌倉幕府開幕と同時に地頭職になり、御家人としての地位を高めていった。しかし、北条氏の独裁が強化され、北条氏の惣領に仕える御家人(御身内)と宗遠のような御家人(外様)の対立が激化し、頼朝が世を去って10年後の承元三年(1209)5月28日に将軍家に不忠な者である梶原家茂(景時の孫)を刺し殺したのであった。この件は和田義盛の計らいで厚面となった。
 もうひとつは、建保元年・建暦三年(1213)和田の乱が起こった。時に宗遠85才。この敗戦により土屋一族は大打撃(土屋次郎大学助義清討死)を受け、幕府から名を現さなくなった。以上この二つは、不運にして宗遠の晩年における不始末であった。
 晩年故郷の土屋郷に土屋山阿弥陀寺(現芳盛寺)を建立し、入道して空阿と号して老後の念仏三昧に入り、そして、ついに建保六年(1218)8月5日90歳にしてこの世を去ったのである。全盛から滅亡へと生きた一武将が目に浮かぶようである。(一説には、没年が建保元年(1213)といわれている。)
なお、土屋一族の墓は大乗院の裏手(館跡の西側の斜面林中)に30余基の墓石が並んでおり、石橋山合戦・和田の乱(10名余の戦死)・平氏追討軍などに加わった宗遠はじめ宗光・忠光等とその一党が葬られている。(義清は、鎌倉寿福寺に眠る)
 二代目宗光(左衛門尉)、三代目光時(将軍供奉兵員)は記録にあるが、その後の名は不明である。
南北朝時代の元弘の乱(1333)には、新田義貞方に、足利尊氏・基代が新田義興を討ったとき(1352〜1358)は、足利氏にそれぞれ味方した。
 十一代目宗貞は、明徳の乱(1391)に山名方、応永の乱(1399)に大内方に味方し、大森氏を攻撃した。大内氏の敗退により土屋氏はその所領を没収された。
 この頃、土屋氏は土肥氏とともに小田原城の拠っていたかどうかは不明である。
応永二十三年(1416)には上杉禅秀の乱に加わり、上杉が敗れて大森氏が城主となり土肥・土屋氏の時代は幕を閉じた。
 しかし、両氏の子孫はこれで滅亡したのではなく、西相模の一角に土豪的勢力で永く保っていたらしい。
こうした事情により土屋地区には「土屋姓」がないものと思われる。現在は、伊豆地方・長野・山梨方面に「土屋氏」が多数みられる。
 現在土屋は、惣領分・庶子分・寺分に分かれ、いわゆる「土屋三分」といわれている。惣領分は惣領の宗光に、庶子分は養子の義清に、寺分は寺社領にそれぞれ分領されたので、そのような名称で呼ばれているといわれている。

                ホームへ       トップへ

3.頼朝と土屋三郎宗遠・養子次郎義清
(1)頼朝挙兵のこと

・頼朝の誕生と平治の乱
 源頼朝が一個の流人として伊豆に姿を現したのは、永暦元年(1160)の春であった。前年の平治元年(1159)暮れに起きた平治の乱で、父の左馬頭源義朝が平清盛とも戦いで敗走したとき、彼は平家方に捕らわれて、伊豆蛭ケ小島に流されてきた。時に頼朝は14歳であった。
 頼朝の誕生は、久安3年(1147)4月とされるが、あるいは翌4年の正月であるとの説がある。
父義朝の数多き子息のうち第三男として、尾張の国熱田神宮に近い旗屋の里に生まれた。この地の浄土宗の寺院誓願尼寺がその誕生の地であるという。母は熱田神宮の大宮司藤原季範の娘で義朝の正室であった。
父の全盛期には、幼くして官位も進み、保元3年(1158)に12歳で皇后大夫権少進になり、1年の間に右近衛将監、蔵人とすすみ、平時の乱の時は藤原信頼の進奏によって、13歳で従五位下、右衛佐に任官したが、これを長兄義平・次兄朝長に比べると、兄たちより官位は高かった。
 ところが、平治の乱は頼朝13歳の初陣であったにもかかわらず、源氏の大敗となったので、父はいったん東国に家重恩の武士たちを集めて再興を計ろうというので、義平・朝長・頼朝の三子を伴い、二十数人の家臣を従えて都を落ちて行ったのであるから、頼朝も落人のひとりとなった。
 一行が近江の国に入ったとき、彼は疲労のあまり馬上で仮眠しているうちに、一行の列から離れ、12月27日の夜、森山の宿で落人狩りをする土豪に襲われたが、馬上から敵二人を斬り、危うく虎口を脱して父の列に追いついた。
翌日また美濃の国関が原で大雪の中で逸れて吹雪の山野を彷徨ったが、情けある老夫婦に助けられ、翌年春まで山奥の片田舎にかくまわれた。2月9日に至って、平清盛の継母池禅尼の子尾張守頼盛の家人弥平衛宗清という者に捕らえられ、京都の六波羅に護送された。
 一方、父の義朝は尾張の野間荘内海で旧臣長田忠致に謀殺され、長兄義平・次兄朝長も非業の最期を遂げたのであるから、捕らわれの身となって京都にある頼朝の命だけが無事でありようはずがなく、頼朝の命は明日にも明後日にも処刑されるべき風前の灯りであった。
 尼(池禅尼は藤原宗兼の娘で、清盛の父忠盛の後室となった人)は、頼朝の言動に非常に心を動かし、頼朝に直接会って心境をたずねて、父祖兄弟の冥福を祈って、読経三昧に入ろうという頼朝の気持ちを聞いたので、実子平頼盛(清盛の異母弟)や平重盛(清盛の嫡男)らを説得して奔走させたので、ついに死罪を許されて伊豆に流されることになった。

・流人頼朝をめぐる人々
 頼朝が蛭ケ小島に流されてきたころの伊豆国をみると、多数の土豪が所領によって武士団を組織して離合争和を繰り返していた。その主なものは、東海岸に伊東・工藤・宇佐美氏があり、中央盆地には北条・狩野氏や伊豆目代の山木判官平兼隆があった。関東は源頼信・頼義・義家三代以来の源家重恩の地だといわれるけれども、関東のすべての武士団が源氏に心を寄せているわけではないし、特に源氏の棟梁家が全滅的打撃を受けて、それに代わって、「平家にあらずんば人にあらず」といわれるほどに、全盛を極めている清盛に対して正面から反抗をする者はなく、伊豆の土豪たちも皆平家に対して一応の忠誠を誓っていた。
 それゆえ、清盛が王朝時代の慣例に基づいて、流配遠島地の伊豆に彼の配所を設定したのは、誤りであったと即断するわけにはいかない。「虎を野に放ったものであった」というのは、結果においてそうなったのをみて、後世の批判するところとなった。
 ただ、武家でありながら平治の乱後、都の地において全く貴族化した清盛とその周囲の人々が、中央での高い地位と強い権力を得ることだけに意識を集中させて、地方の統制を忘却しがちであったのは事実であった。平家の荘園は天下に半するといわれたが、藤原時代と同様に地方豪族にとっては不在の領家であった。
このような中で、東国の武士団が蓄えていた武力が、ひとたび統制され、ある有力な人物によって指導されたときは、恐るべき力を発揮しようとしている気運の底流していることを、あらかじめ見抜くことができなかったのは、清盛の大きな過失ということがいえよう。
 流人の姿といいながら源家の嫡流頼朝は、このような情勢の東国に下って来たのであり、伊豆に早くもさざ波が立ち始めていた。
 しかし、清盛は頼朝を伊豆に流すにあたり、全然配慮しなかったわけではなかった。同国の二大豪族ともいうべき、伊東の伊東祐親と北条の北条時政とを監視役としたのであるともいわれ、また蛭ケ小島東隣りの山林に一族の平兼隆を住まわせて、厳重に見張らせていた。
 伊豆において頼朝は、伊東祐親の娘八重姫と、また北条時政の娘政子と恋仲になり種々の問題を引き起こすのである。  承安2年(1172)頼朝26歳・八重姫17〜18歳、安元3・治承元年(1177)頼朝31歳・政子21歳。
いうまでもなく頼朝は政子を妻として、源氏の地盤を固める基礎を創ったのであり、時政としても頼朝を婿にすることを密かに狙っていたのかもしれない。

・旗挙げまでの経過
 政子事件がありしばらく後、北条時政のもとに帰って、北条館の中に住んでいたようであった。
そして、この頃から頼朝のもとに出入りして、奉仕する人々も多くなった。いわゆる伊豆・相模地方に拠っている土豪武家たちであった。こうした周囲の動きの中にもまれながら、またこうした社会の空気を呼吸しながら、20年に近い年月を送ってきた頼朝の心境は次第に大きな変化をもたらしてきた。
特に、政子と結ばれてとき政を義父として、それを背景の力として持つようになってからは、一層の賑わいを呈するようになった。
 安達盛長は、頼朝の乳母比企局の娘婿として、伊豆配流の初めから奉仕していた。他に北条時政とその嫡男宗時・次男義時・狩野茂光・宇佐美助茂・天野遠景・加藤景廉・小中太光秀などの伊豆の土豪や、相模在住の武家としては土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実・大庭景義(景親の兄)・佐々木秀義とその子定綱・経高・盛綱・高綱の兄弟などが元来給仕の主な人々であった。
 そして、そこへ京都の三善康信から中央政治の情勢が次々に報告されてきた。
この20年の歳月を経過している間の京都中央政治の情勢は、どのように動いていたのだろうか。平治の乱に大勝を博した清盛は、政治的・経済的手腕を揮って、乱後急速にその地位を高め、かつ固めていった。
大輪田泊(神戸港)を開き、音戸の瀬戸をうかがって瀬戸内海の海上権を握るとともに、日宋貿易の重要地点である大宰府に、家人を配置して貿易の利益を独占した。
また、その全盛時代は、平氏は日本六十六ケ国の半ばに達する三十余国の国々を領し、全国に500余の荘園を持っていた。
 かつて、藤原氏が全国に多くの荘園を持ちながら、その統制が完全でなかったため、土地から遊離してしまって、名主(ミョウシュ)たちが離反しまったことにかんがみて、清盛はこれらの領国や荘園の統制強化に力を注いだ。
領国の国司には家人を任命し、荘園には地頭を置いたが、一族の国司として任地に赴く者は稀で、領主の不在の有様で、平家の権力を傘に着た目代が、地元でいたづらに威を張るに過ぎなかった。
武士階級全体の利益を考え、その所領の保護・安堵に努めることはしなかったので、全国武士の信頼をつなぐことができなかった。
 清盛の理想とするところは、貴族の生活であった。そして、かつて目のあたりに見てきた藤原氏の栄華であった。彼は後室をはじめ公家との間の結婚によって結び、藤原氏と同じく天皇の外祖父の地位に立って、政権を執行しようとした。娘徳子(後の建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れ、自らは太政大臣となって、皇子の誕生を待った。
一族みな高官に上り、「平家にあらずんば人にあらず」といわれるほどであった。
こうして平氏は貴族化することによって、武家としての特色を失っていた。清盛がこのような大きな権力を握ることができたのは、院に取り入ったからであり、初めは院政の支持者としての立場を失わなかった。したがって、院政をとっていた後白河法皇も、初めは清盛を信頼していたが、清盛の横暴がつのるにつれて、その信任も次第に失われて、両者はやがて対立の関係に立つに至った。
 公家の平家に対する反感は次第に高まり、法皇の近臣の中には、密かに平氏に対する打倒の計画をめぐらす者さえあった。鹿谷の陰謀というのがそれである。しかし、公家の力ではどうすることもできず、この計画は失敗に終わった。
 治承の年も2,3年と進むにしたがって、京都には不安の気分が濃く底流し始めたが、それにもかかわらず、平相国清盛の専横はいよいよつのり、治承3年(1179)11月になって、清盛は強いて奏請して、法皇の近臣39人の官職を止め、次いで院政を停止せんことを請い、ついに法皇を鳥羽殿に幽閉し奉るに至った。
治承4年(1180)になり、4月22日に高倉天皇の譲位により、中宮徳子の生んだ皇子が3歳で天位についた。安徳天皇である。そして、福原の新都に遷都も行なった。しかるに、それより先4月9日には、すでに源三位頼政の挙兵があり、頼政の奉じた以仁王の令旨が天下に檄されていた。
 しかし、4月9日の挙兵が4月26日には、宇治川の戦で頼政は討死し、以仁王も流れ矢に当たって薨じて終わった。
伊豆国の流人前佐兵衛源頼朝は、源家の嫡流であるから、特別に彼宛に令旨を発せられることになったが、その御使として新宮十郎義盛が選ばれた。この人は、頼朝の祖父為義の末子であって、平治の乱で源氏没落のときより、紀州熊野に身を潜めていたが、この当時は京都に帰って住んでいたので、令旨の全国布達にあたっては、特に東国は伊豆に頼朝がおり、奥州に義経がおり、源氏重恩の武家の潜んでいるところであるから、他の人でははばかり有るべしとして、特に義盛が選ばれた。
 彼は無官であったので、この重大な役目に無官では良くないということで、即座に蔵人に任命されたので、十郎蔵人と名乗り、義盛改め行家と称し、挙兵の日4月9日に令旨を賜って、翌10日の夜半に東海道を下った。
頼朝のいる北条館に到着したのは4月27日であった。

・頼朝に参じた郷土の兵(つわもの)たち
 都における諸情勢と以仁王の令旨により、義ある心堅き重代の家人たちは、忍び忍びて夜口に北条の地に参集してきた。
その中でも、頼朝の最も頼みとした大きな力は、伊豆における北条時政はいうまでもないが、西相模における中村宗平一党と東相模における三浦義明一党の三家であった。房総の千葉介胤も有力な見方の家柄であるが、道遠きためこの時は参集できなかった。
 中村一党を代表するものは、土肥郷(湯河原町)の土肥次郎実平父子、土屋郷(平塚市土屋)の土屋三郎宗遠父子であり、三浦党を代表するものは、岡崎城主(平塚市岡崎・伊勢原市岡崎)の岡崎四郎義実とその子真田城主(平塚市真田)の嫡男真田与一義忠であった。
 これらの人々の他に、伊豆では工藤介狩野茂光父子、宇佐美助茂父子、天野遠景父子、加藤景員とその子光貞・景廉兄弟、相模では大庭景義、佐々木秀義とその子たちであった。この中の大庭景義は異色ある人物であった。彼は頼朝と石橋山で戦った敵軍の大将大庭景親の実兄であった。大庭氏は鎌倉権五郎景政の子孫で、高座郡大庭城(藤沢市大庭)に拠った豪族で、源家三代相伝の家人であったが、景宗の長男景義は懐島(茅ヶ崎市懐島)に住んで平太景義といった。保元の乱のとき、源為朝に膝の節を射抜かれたという大庭平太というのはこの人である。
彼ら四兄弟は、石橋山合戦のときは、敵味方に分かれて戦ったのであり、景義は最後まで頼朝に忠勤を励み腹臣のひとりであった。

・頼朝挙兵
 治承4年(1180)8月17日、ついに山木館の襲撃は開始された。大将は北条時政で、嫡男宗時が先鋒となって、次男義時・佐々木三兄弟・土肥・土屋・岡崎・真田・大庭平太も加わって、家の子郎党も合わせて85騎であった。
 そして、ついに山木館は落とされ、北条館の庭上に参集して、頼朝の前に山木判官平兼隆主従の首を閲覧に供したのは、8月18日の暁天であった。
 頼朝は数日の後、兼隆の追善供養を行なって、修行者を招いて唱導をつとめ、兼隆とともに死んだ人々のために冥福を祈った。

・石橋山合戦日譜
 治承4年(1180)
  8月17日 頼朝挙兵。夜山木兼隆の館を急襲し落とす。
  8月19日 頼朝夫人政子を伊豆文陽坊に託す。
  8月20日 頼朝伊豆を発して相模に向かい、同夜土肥館に宿泊する。
  8月21・22日 この両日、土肥館に止まって軍議をこらし敵状を探る。
  8月23日 頼朝手兵300を率いて石橋山に陣する。この日曇り、夜に入って大雨となる。
         敵将大庭景親3000の軍と雨中の激闘天明におよび、頼朝遂に敗れて後山へ逃げる。
         この時真田与一義忠(25歳)とその郎党陶山文三家安(57歳)は討死する。
  8月24日 頼朝椙山の堀口に止まって、大いに追撃の敵と戦う。敗走して椙山の奥に潜入する。
         山中で敵の梶原景時の厚情によって難をまぬかる。夜、箱根権現別当行実の使者永実の
         来迎をうけて、権現に至り永実宅に宿泊する。
         この日、北条宗時・狩野茂光等、伊東祐親の軍に追われ平井郷早川辺にて討死する。
  8月25日 早朝、箱根権現を出発する。箱根を通り小道峠にかかり、小道地蔵堂の難に遭う。
         夕方、危機を脱して再び椙山に潜入する。
  8月26・27日 この両日消息不明。おそらく鵐窟(しとどのいわや)に潜伏したものと思われる。
         土肥実平夫人のひそかに運ぶ食によって餓を免れる
  8月27日 北条時政ら岩の浦より舟にて安房に先行する。 
  8月28日 頼朝主従、岩の浦(真鶴町岩海岸)より脱し安房に向かう。(世にいう「七騎落ち」)。
         出港に先立ち、小早川遠平を伊豆山に遣わして、政子夫人に消息を報告する。
  8月29日 頼朝の舟、安房国猟島(千葉県南房総)に着く。

 この石橋山合戦における山中での手引き・道案内等に、土肥実平・土肥(小早川)遠平・土屋宗遠らは大きな影響力を及ぼした。

・中村一党、土肥・土屋氏の加勢
 頼朝が伊豆に配流中、早くから蛭ケ小島の館や北条館に出入りして、奉仕した西湘地方の人物に、土肥実平とその子遠平、実平の弟の土屋三郎宗遠という者があり、年とともに重要な役割を演じて活動するようになった。
 「吾妻鏡」・「源平盛衰記」を見ると、山木の館の夜討ちの兵を催すあたりから、しばしばその名が現れてくるが、「源平盛衰記」のその時の条に「土肥・土屋・岡崎の輩は元来給仕し奉る云々」といっていて、以前から奉仕の人々だということを述べている。
 また、同書の山木夜討ちの場面では、兼隆配下の剛勇関谷八郎が、「今夜の夜討ちの大将は、北条・佐々木か、土肥・土屋か、加藤が党か」と呼ばわるところがあって、土肥・土屋が頼朝周囲の有力人物と目されていることを示している。

(2)頼朝の逃亡のこと
・敗戦、椙山への潜入
 8月23日の石橋山の合戦は、疾風吹き荒れ豪雨降りしきる中での、終夜にわたる壮烈な接戦であった。
もともと多勢に無勢で、兵力に大差があったので、勝利の望みは薄かったが、それにしても緒戦での余一義忠とその郎党たちの戦死は、頼朝には致命的な大打撃となった。
 義忠討死の後は、源平互いに兵を入れ替え入れ替えして戦ったが、敵は多勢でその勢いに乗じており、味方は多くの痛手を受け、軍兵ははや疲れ果てたので、頼朝方は天のほのぼの明けること、遂に敗走するの止むなき戦況となった。そして、実平に導かれて、椙山の奥深くに潜入した。

・鵐の窟に隠れる
 頼朝は椙山をかき分けかき分けて落ちて行き、鵐の窟という谷間に下ると7、8人も入れるほどの大洞のある伏木があったので、土肥実平・土肥遠平・新開忠氏・土屋宗遠・岡崎義実・安達盛長・田代信綱主従8人が、その大洞の中に隠れた。
 そこへ、大庭景親が曽我・俣野・梶原などの平家の面々と、追いかけて来て探し回ったが、頼朝主従の姿が見当たらないので、大庭がそこにあった大きな伏木を見つけ、「その伏木の中が怪しい。空洞の中を探してみよ」というので、梶原景時が弓を小脇に抱え、太刀に手をかけながら伏木の中をうかがって見ると、その中にはたして頼朝主従が隠れていて頼朝と景時の目と目が互いに見合った。
 このとき、景時は頼朝を助けようと決意し、折柄その大洞に”蜘蛛”が糸を引いていたので、それを弓の筈や、冑の鉢にかけて伏木の外に出て、「中には”コウモリ”がたくさん騒いでいるが、ほかには”ケラ”一匹もいない」といった。
 しかし、大庭はなお不審がって、自ら大洞を探ろうとするので、景時が色をなしてその前に立ち塞がり、太刀に手をかけて、「御辺自ら洞を探ろうとするのは、この梶原が二心あるものと疑ってのことか。もしも、中に人がいるなら、弓や冑にこんなにクモの巣がかかるはずがないではないか。そのような不信の行為をされるならば、梶原の面目にかけて、誰にもこの洞を探らせはせぬ。」と、叫んで詰め寄ったので、大庭もさすがにひるんだ。
 そのとき、伏木の中から山鳩が飛び出して、はたはたと羽ばたいたので、皆の者が、「佐殿内におわさんには、鳩は有るまじ」といって、引き上げた。
 折りも折り、さしも晴れたる大空にわかに黒雲引き覆い、雷おびただしく鳴り回って、にわかに大雨となったので、敵は大石を7,8人がかりで伏木の口に立て塞ぎ、引き上げて行った。
 梶原景時の有情のおかげで、大庭景親一党は傍峰に去ったため、一時椙山付近に敵影なく、頼朝もしばらくは洞窟内で安堵の胸をなでおろした。この事件により、梶原は後に頼朝の重臣となっていくのであった。
 このとき、頼朝の傍らに従っていた人物が誰と誰であったかは明らかでなく、「吾妻鏡」には、土肥実平の名のみしか記していないが、主従各々一人というのでは、危険の場合に主人の身を守り難いから、腹臣数人は従えていたと考えてよく、「盛衰記」に実平のほかに、実平の嫡男遠平、遠平の弟忠氏、実平の弟土屋宗遠、宗平の娘の夫で真田与一義忠の父岡崎義実、頼朝の身の回りの世話役安達盛長の6人で、これらは前にもたびたび述べたように、頼朝の伊豆の配所に早くから奉仕していた人々を記しており、安達を除いてはみな土肥実平の血縁一党であった。
 石橋山合戦の頼朝方の策戦と行動とには、土肥実平が中心となって動いていることが察せられる。
特に、実平がこの合戦の危地から頼朝を守り通した功績は、なんと言っても大したものであり、実平を中心とした土肥・中村・土屋・岡崎・真田の一党の活動は、この合戦における頼朝の主軸であった。

・岩の浦から房州を経て鎌倉へ
 頼朝一行は、岩の浦(真鶴岬)から舟に乗じて房州方向を指して行き、治承4年(1180)8月29日安房の国に上陸した。
 先行の北条時政、岡崎義実、三浦義澄一党はすでに安房国におり、300騎の手兵を率いており、千葉介常胤父子は3000騎をひきいて下総の国府に入った。また、ここでは平広常が2000人の大勢を率いて来従した。これにより、坂東武士の大勢力が結集され、10月6日初めて鎌倉の地に入ったのであり、その行列に加わった兵数は5万騎に達していた。

・富士川合戦
 一方、木曾義仲が9月7日に信濃に兵を挙げ、北陸地方を次々と打ち従えて、京都に上がろうとする気勢を示してきた。この関東・北陸の形勢が、櫛の歯をしくがごとく六波羅に注進されるので、平清盛もさすがに狼狽して、源氏討伐の大軍を催すことになり、嫡孫平維盛を総大将とする頼朝追討軍が、京都を発したのが9月29日であった。
 頼朝がこれを迎え撃たんとして、鎌倉を発して足柄峠を越えたのが10月18日で、「吾妻鏡」にこのとき頼朝に従った軍勢は20万騎の精兵であったと記している。
 頼朝が平家の軍と富士川に対陣したのは10月20日であるが、軍兵の数にして平家方は5万人、頼朝方は20万人で、平軍は戦わずして潰走したのは、真に当然のことであろう。
 石橋山合戦の敗走以来、ここに至るまで50余日で丸三ヶ月に及ばないのであり、驚嘆というほかはない。

・合戦前後の西相模の武士たち
 当寺、武力や経済力に自信を持っていた豪族武士の中には、自己の実力のみをたのんで、他を顧みない独立心の強烈なものもある。
 一方には、相変わらず中央強権や貴族たちに服従して、その援助によって自己の地方的勢力の拡大を計ろうとする、二つの矛盾しあう精神が絡み合うなどして、関東武士団の動きは複雑であった。
 その上、武家は表面には家を重んずるから、血族因縁関係に影響されることも大きかった。
頼朝が源家の再興を旗印としての挙兵は、このような情勢の渦巻きの中に投じた大石で、波紋は大きく乱れた。
 西湘地方もなかなか複雑であった。この戦いで最も奮闘したのは、土肥実平・土屋宗遠兄弟を中心とする中村氏であったが、一党の総帥中村宗平が在世中であるにも拘わらず、出陣しなかったのは老齢のためであったし、その嫡男重平の名が表れていないのは、彼はこのときすでにこの世になく、父に先立って死去したものと思われる。
 それゆえ、宗平は嫡孫中村景平、その弟中村盛平を出陣させた。しかるに、中村一党の中の有力なる家柄である二宮氏だけは、敵にも見方にも立っていない。二宮氏は兄弟中でひとり中立の立場を執った。
 これは、この頃すでに長男の朝忠が、曾我兄弟の姉を夫人として迎えていたためと推定される。この女性は、曾我兄弟の異父の姉であり、この人を妻とした二宮朝忠は、領土を接する曽我氏から働きかけもあって、動くことができなかったものと考えられる。
 西湘の一豪族曽我氏の場合を考えると、当主祐信は、この合戦の起こる4年前の安元2年(1176)に、伊東祐親の嫡男の故河津祐泰(母は宗遠の妹満江御前)の未亡人満江御前(万劫御前ともいわれる)を、後妻に迎えていて、祐親の愛孫十郎・五郎兄弟が御前の連れ子として来ているので、祐信はその養父となっているから、この伊東家との関係は、彼を平家方に走らさずにはおかなかったのであろう。
 しかし、曾我祐信は戦後いち早く、降人として出たので、頼朝は11月17日祐信を厚免し、まもなく所領を安堵して、将軍随身の中に加えた。

(3)平家追討と土肥・土屋一党のこと
 頼朝が鎌倉に根拠をすえて、平家を討伐することになってからも、土肥・土屋の活動は続いた。
彼らは木曾義仲との戦いのときも範頼・義経に従って出陣しており、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の戦いにも義経に従って戦っている。また、建久2年(1191)の藤原泰衡の追討軍にも加わっていた。土肥実平にあっては、命を受けて軍を備中に駐(とど)めて、西海経略の軍艦となり、軍事を督(うなが)した。
 
そして、平家滅亡後は、全国に置かれた守護・地頭を監督し、その横暴を押さえる必要から、頼朝が武勇の士を各方面に派遣したとき、実平と梶原景時とが、中国地方一帯を治めることを命ぜられていた。


                ホームへ       トップへ


4.土屋氏のゆくえ
 
鎌倉幕府の実権を握り、さらに野望を着々進めつつある北条時政・義時父子には、実平が創業殊勲の功臣として、頼朝の特別の信頼と寵愛を受けていることや、彼の剛直自重の性をとかく疎(うと)ましく思い、敬遠してその経綸を封ずる態度があった。
 実平・遠平はよく自重して事なきを得ていたが、このような北条氏に対しての憤懣の気持ちは、実平にも当時からあったらしい。
 実平は、執権北条氏の圧力の強い相模の地において、十分に足をのばし、経綸を振るうことの困難さを感じ、後年西海に実力を扶植し、領土も多く持つようになり、西海に土着して、彼自身は土肥に帰らなかったと思われる。
 嫡孫維平の時代になるや、建保元年(1213)和田義盛の挙兵(和田の乱)に組した。このときは、土肥・小早川党は、当主維平が義盛に与力した。
 兄弟父子3人が幕府側の敵となって命を落としたことは、土肥氏には大打撃で、ことに維平は捕らわれの身となって、囚人たること4ケ月余、建保元年(1213)9月19日に死刑となった。
 この合戦で、土肥氏以上の打撃を受けた家柄に、実平の実弟土屋三郎宗遠がある。
宗遠は石橋山の功労者だが、晩年にひとつの大きな不始末を犯したことは前に記したが、和田合戦についてすこし触れておこう。
「吾妻鏡」の建暦3年(1213)5月2・3日における合戦で討たれた謀反人方(和田方)の氏名録を見ても、「土屋の人々」として土屋大学助(土屋次郎義清)・同新兵衛・同次郎・同三郎・同四郎・園田七郎・同太郎・同次郎・やきゐ太郎・同次郎、以上10人の名が列挙される。
 園田氏は上野国出身の武人であるから、彼以下5人は土屋氏と同隊となって戦った人々らしいから、土屋氏一族では、土屋大学助以下5人が命を落とした
 殊に大学助は、張本人の一人として目された人物で、同年5月3日合戦終了後に、執権北条家から公告した教書にも、「和田義盛・土屋義清・横山時兼すべて相模のものども、謀叛を起こす云々」と、記されている。
義清は初め土屋小次郎と称して、頼朝に同心して挙兵すると聞いて、京都を抜け出て故郷に帰る途中、すでに合戦が起こり、兄与一義忠は討死し、養父宗遠は敗走して甲斐に落ちんとして、足柄峠にかかったところ、義清も峠に達し、夜中に峠で二人が再開することになるが、この劇的な話が「源平盛衰記」に載っている。
 ・・・(宗遠が甲斐に落ちんとしたということは、岩の浦からの舟出が矛盾することになる)・・・
前記のとおり、宗遠が晩年に和田義盛から受けた恩義があるので、義盛挙兵に当たっては、主謀者の一人として、一族を率いて参戦したが、このとき義清は兵を率いて、甘縄から亀谷に入り窟堂前の路地を経て、鎌倉御所のところに推参せんとしたところ、若宮通りの赤橋の側で、流れ矢に当たって討死した。命中した矢は北方から飛んできたが、人々はこれは神鏑(かみかぶら)であったと評判したという。
 以上のような次第で、土肥・土屋・岡崎の一族親縁の三家は、各々その家の時の当主が、兄弟父子並んで和田合戦に組し敗れ、叛臣の名を負うて命を失ったのであるから、この事件が三家に与えた打撃はすこぶる大であったといえよう。

 のちに宗遠は、石橋山の旗挙げで命を落とした嫡男忠光と和田の乱で討死した養子次郎義清、それにともに戦い討死した郎党達のために、伊豆・相模・安房・武蔵の国が見渡せる七国峠に「供養の松」を植えたのである。現存はしていない。これに関する「土屋に伝わるおはなし」が残されている。


                ホームへ       トップへ

5.真田与一義忠のこと
 真田与一義忠については、小田原市の石橋山古戦場跡の「佐奈田霊社略縁起」を参考に説明する。

(1)佐奈田霊社(石橋山古戦場)
 小田原市石橋の南熱海県道から石段を登った丘上に老杉がある。ここを「与一塚」と呼んでいる。
樹前の碑に「佐奈田与一義忠の墓 治承四年庚子年八月二十三日夜」と、記されている。
 現在この碑は、堂宇の中に安置されている。延宝・天和の頃、小田原候の称子美濃守正則の臣田辺権太夫信吉の立てた所で、毎年八月二十三日には、近隣の善男善女が群参し、祷賽には、松明を灯して、墳前に手向けることを例としている。今では、毎月二十三日に行なわれている。
 佐奈田義忠霊前に詣でる者は、「喘息・咳止め・その他所願に霊験あり」と、日に月に多くある。

(2)石橋山古戦場
 平治の乱によって、戦いに敗れた源頼朝は、遠く都から追われ流人の身となって、伊豆蛭ケ小島の配所に、埋木の花咲く春を待つうちに春風、秋風二十年の月日が過ぎた。
 治承4年(1180)の春、隠忍若節の報いられる時が遂に到来して、後白河法皇の皇子以仁王の平氏追討の令旨(れいし)を得た。この時、頼朝の喜びは云わずもがなであった。
 頼朝は、男山八幡宮を遥拝し、北条時政と結んで早速挙兵しょうとしたが、まもなく京都で挙兵した源三位頼政は、宇治平等院の露と消え、ついで以仁王敗北の悲報を受けたので、さすが頼朝も慨然とした。しかし、頼朝はこれに力を落とすことなく、追々近隣の豪族たちが帰服すると決然と起こって、源氏再興の旗を挙げ、八月二十日伊豆の配所を出発して、以仁王の令旨を旗上に結んで、二十三日寅刻石橋山に布陣した。
 従う者、北条時政父子、藤九郎盛長、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎四郎義実、同長子真田与一義忠、中村太郎景平、同次郎盛平など、いずれ劣らぬ鎌倉武士三百余騎で、一方これに向かった平家方は、俣野五郎景久、河村三郎義秀、渋谷荘司重国、糟谷権主盛久、海老名源三秀貞、曾我太郎祐信、、瀧口三郎経俊、毛利太郎景行、長尾新五為宗、原宗三郎景房、同四郎義行等、平家被官の輩武蔵国住人熊谷直実等を併せ精兵三千余騎、この全軍を大庭三郎景親が統監し、険しい峰に谷を隔てて対陣した。
 この戦いに頼朝のたのむところは、三浦義明、義澄の一族であった。三浦一族は頼朝の檄を受けて馳せ参じたが、豪雨のため晩ころになって、ようやく酒匂川まで到着したが、川水が氾濫して、眼前に石橋山を仰ぎながら渡河できなかった。
 石橋山からはるかにこれを望見した景親は、攻撃が一日遅れれば味方は一日の不利を招くことを恐れ、なるべく速やかに事を処することと感じ、にわかに兵を動かして、二十三日の夕刻を待って、頼朝の陣へ総攻撃の火蓋を切った。空が荒れだして、篠つくような豪雨、そのうえ風さえ加わって真の闇の中の両軍は、一夜激戦に激戦を展開した。
 しかし、頼朝方では、何れも死を決し戦ったが、多勢に無勢、岡崎義実の息子真田与一義忠以下命を損するもの数名、夜明け方になり、景親は敗走した頼朝の後を追撃したが、日頃頼朝の志を通していた飯田五郎家義が、にわかに反らして防ぎ戦ったため、見す見す頼朝を逃がしてしまった。
 これより先、頼朝は敵勢が押し寄せたことを聞いて、諸将を集め策戦計画を相談した。
そして、「射手には武蔵、相模の名のある諸将は、ほとんど集まったと思わねばならぬ。中でも、大庭・俣野の兄弟は特に手強い相手であり、且つ、きっと先陣になって来ると思う。ついては、これには誰を向かわせたらよかろう」と、皆の意見をたづねた。
 すると、岡崎四郎義実が進み出て、「親の口から、このような事を申し上げるは、どうかと存じますが、和が子の真田与一義忠こそ一番の適任者と存じます。と申しますのは、彼は久しく病気をして、まだ回復しておりませんが、なんと申しましても彼の右に出る者はございません。大庭・俣野兄弟の相手は、彼奴に御命じになるのが一番でしょう。」と言上した。
 そこで、早速与一を召し出すと、青地錦の直垂に赤威の鎧を着て、肩白冑に裾金物を飾った兜を付けて、折烏帽子をかぶり御前に平伏した。頼朝は、「大庭・俣野といえば、敵の中でも最も名ある奴原であるが、お前が先陣して彼奴等を討ち取り功名を立てよ。」と命じた。
 与一はかしこまって御前を下がり、郎党の陶山文三家安を呼んで、「母上や妻に、お前から申し伝えよ。一昨日家を出た時を最後と思って下さい。今回、味方の名ある諸将の中から特に選ばれ、先陣を努めよとの御命を受けた。武士としてこれ以上の名誉はないわけである。従って、生きて再び帰れるものとは、少しも考えない。もし、私が討たれたと聞いたならば、二人の我が子を、どんな山奥でも一時隠して、どこまでも生き長らえて、そうして頼朝公が再び世に出られる時世が来たならば名乗り出て、岡崎と真田の家名を継がしてくれ。父岡崎四郎も同じ陣中であるから、これまた無いものと思わねばならぬから。」と、最後をくれぐれも頼んだ。
 しかし、家安は、「私は貴方が二才のときから、夜は胸にお抱きし、昼は肩にお乗せ等して、一日中ただひたすらに、貴方が成人して、天晴れ人に秀でた武将になられんようにと、お世話申し上げました。五、六才になられた時は、竹の小弓を作ってお上げしたり、ご一緒に馬に乗ったりしたこともありました。
 そして、今このようにめでたく成人され、しかも主君の特別の思し召しで、先陣の御命をお受けになった晴れの合戦に、どうして貴方様だけをこの戦場に残して、私ひとりおめおめと帰られましょうか。貴方様が二十五才の若桜を、主君のために散らすご覚悟ならば、私も五十七才のわが身を、貴方様の馬前に散らす考えであります。」と答えて、故郷への使いには、三郎丸という童を遣わした。
 さて、与一が出発しようとすると頼朝は、「お前の装束は、あまりにも華やかだから、着替えていくように。」と言ったが、「武士が戦場に出て、晴れがまし過ぎるということはございません。」と言って、十五騎の者を連れて進み出た。
 平家方は、早くもこの華やかな武者ぶりを見つけて,「彼こそ与一ぞ。討って手柄にせん。」と打ち向かったが、だんだん夜の幕が下りてきて、姿の識別がつかなくなった。
 与一は家安を呼んで、「めざすは、ただ敵の大将、大庭・俣野の兄弟のみ。自分が大庭に組んだら、お前は俣野を討ち取れ。自分が俣野に組んだら、お前は大庭を討ち取れ。」と、主従力を併せて大庭兄弟に逢わんものと、豪雨の中を右に左に奮闘した。
 平家方の一人岡部弥次郎は、この与一の姿を認めて、「よき敵」と馳せ寄った。与一は、俣野五郎なりと確認して、ガッキと受け止めて、組み伏せて手早く首を討ち斬り、僅かな光に打ちすかして首を見ると、俣野ではなくて岡部の首であったので、谷間に投げ入れて、またも前進を続けた。
 一方、大庭も弟の俣野五郎に、「何とかして真田与一に出会って、彼を討ち取れ。自分の彼を目当てにするから、めざすは裾金物が、殊にきらめいた鎧を着て、白い馬に乗ったのが与一ぞ。」と励ました。
 この俣野が、この乱戦のなかでバッタリ与一と出合った。
しかし、この暗闇の中で、それとは判らず味方の一人と思い込んで、「真田与一という奴はまだ落ちないか。」と声をかけた。すると、その耳元で、「真田与一はここにあり。そういうお前は。」、「俣野五郎。」と、答えるや否や、二人はガッチリ組み合い、馬の間にどっと落ちた。
 そして、上になり、下になり、もみ合って山坂を転げ落ち、海岸の断崖上まで転げて行った。遂に、与一が上になった。そこで首を斬らせようと、「家安、家安。」と呼んだが,乱戦のこととて、側に来ていなかった。そこにやって来た平家方の長尾新五が大声で、「上が敵か、下が敵か。」と呼ぶと、与一は、「上は五郎、下が与一。」と怒鳴った。
すると、俣野も、「上が与一、下が五郎。」と叫んだ。新五は暗闇であり、上か下か判らず困っていると、俣野が「何をぐずぐずしている。鎧の色でも、そばに寄って見ればよいではないか。」と怒鳴った。なるほどと、そばに寄って来た。
見られては一大事と、与一はいきなり新五を蹴り倒して脇差しを引き抜き、俣野の首をかき斬ろうとした。しかし、いくらもがいても斬れぬので、不思議に思って、透かして見ると、鞘のまま抜けていた。そこで、鞘を口に咥えて抜こうとしたが、先ほど斬った岡部の血糊が固まって遂に抜けない。その所へ走り寄った新五の弟新六定景が、与一の胡ろく(やなぐい:矢を盛って背に負う具)の間にこびついて与一の首をかき斬った。
 一方、主君の義忠(与一)を乱戦の中に見失った家安は、主人の姿を求めて暗闇の中を彷徨ううちに、これまた稲毛三郎の郎党に取り囲まれ、奮戦ののち戦死した。
この間に、頼朝は土肥の方面へと、山伝いに逃れて行った。
 石橋山古戦場の歴史は、この程度にしておくが、当佐奈田霊社は交通の発達とともに参詣の人が多く、発展興隆しつつある。なお、詳しく知るには、吾妻鏡か新編相模風土記稿を参考にされたい。

[参考]
与一と五郎の場面について
 一説には。与一が上になり、五郎が下でもみ合っているところへ、与一の郎党家安が参り、「いずれが与一か。」と怒鳴った。すると与一が、「上が与一、下が五郎。」と言おうとしたが、折から風邪をひいており、治癒してなかったため、「痰」が詰まっていて言えなかった。
 すると、俣野五郎が、「上が五郎、下が与一。」と怒鳴った。家安は、「上が五郎。」と聞いて、上になっている主人の与一の首を誤って斬ってしまった。・・・・・・・・・・とも言い伝えられている。
 これにより、真田与一は、「痰の神様・咳の神様・喘息の神様」と言われるようになったという。
平塚市真田の天徳寺でも、寺域に与一を祀る霊社があり、毎年1月23日に、「与一まつり」(初与一・よいっつあんまつり)が行なわれている。与一の命日である”8月23日”には、「与一まつり」が盛大に執り行われており、与一の想いを唄った「与一甚句」が披露される。この「与一甚句」は、旗挙げ当時からこの真田に居を構えておられる「陶山卯佐治氏」が作詞され、「与一神輿保存会」のみなさんが唄っている。
 近隣の人々から、「真田の与一さん・真田のよいっつあん」と呼ばれ、厚い崇拝を受けている。



                  ホームへ       トップへ