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先に、「相州土屋三郎宗遠公甚句」を掲載しましたが、少々唄いづらい個所がありましたので改良してみました。
どうぞ、唄ってみてください。お気付きの個所がありましたら、遠慮なく”感想へ”か”掲示板へ”に連絡してください。
相州土屋三郎宗遠公甚句(つちやのさぶろうむねとおこうじんく)  (改訂版)        作詞 関野勝久     
・・・・・ セエー さあさエー みなさま ・ お唄いなされヨー 
        歌じゃエー ご器量はヨー 下がりゃせぬ ・・・・・
一、土屋三郎宗遠公(つちやのさぶろうむねとおこう)
セエー   聞いてください
聞いてください  みなさまよ
土屋三郎(つちやのさぶろう)  宗遠(むねとお)
桓武平氏(かんむへいし)の  (なが)れくむ   
相模中村(さがみなかむら)  一党(いっとう)
土肥次郎実平(といのさねひら)  (あに)にして
岡崎四郎義実(おかざきしろう)の  義弟(おとうと)
平家全盛(へいけぜんせい)  その(とき)に 
世直(よなお)しせんと  ()()がる 
日本一(にほんいち)の   (つわもの)よ  
                                                  トップへ
二、石橋山(いしばしやま)(相模のもののふ旗挙げ)
セエー   聞いてください
聞いてください  みなさまよ
治承四年(じしょうよねん)の  八月(はちがつ)に 
相模(さがみ)(ごう)の  武者(もの)どもが   
武門(ぶもん)(ほま)れの  (いさ)(あし)  
多勢(たぜい)無勢(ぶぜい)の  石橋(いしばし)で (注)源氏旗挙(げんじはたあ)石橋山(いしばしやま)(いくさ)
大雨(あめ)闇夜(やみよ)の  忠光(ただみつ)は (注) 忠光:宗遠公の嫡男(ちゃくなん)
真田与一(さなだのよいち)と  (はな)()(注) 与一:宗遠公の(おい)・忠光と従兄弟(いとこ)
(あわ)れこの()の  無常雨(むじょうあめ) 
                                                  トップへ
三、(しとど)(いわや)蜘蛛(くも)(いと)
セエー   聞いてください
聞いてください  みなさまよ
石橋逃(いしばしのが)れ  椙山(すぎやま)(鵐の窟)
八騎(はちき)武者(さむらい)  機会(とき)()
伏木大洞(ふしき)()ろ”と  ()われしを
景時太刀(かげときたち)に  ()をかけて  (注)梶原景時(かじわらかげとき)
頼朝公(よりともこう)と  鉢合(はちあ)わせ(目と目が会う)
景時運(かげときうん)の  (ため)(どき)
弓矢兜(ゆみやかぶと)に  蜘蛛(くも)(いと)
面目(めんぼく)かけて   仁王立(におうだ)
頼朝公胸(よりともむね)を  ()()ろす
                                                  トップへ
四、(いわ)(うら)七騎落(しちきお)ち)
セエー   聞いてください
聞いてください  みなさまよ
真鶴岬(まなづるみさき)は  (いわ)(うら) 
安房(あわ)をめざして  七騎落(しちきお)ち 
小舟(こぶね)()りし  人影(ひとかげ)を 
(てき)大将(たいしょう)  ()()める 
いえいえあれは  岩浦(いわうら)の 
鯨捕(くじらと)りの  槍先(やりさき)よ 
(なさ)(ぶか)き  つわものよ 
(あと)できっとよ  恩返(おんがえ)し 
                                                  トップへ
五、黄瀬川対面(きせがわたいめん)義経(よしつね)
セエー   聞いてください
聞いてください  みなさまよ
黄瀬(きせ)河原(かわら)の  源氏軍(げんじぐん)
戸張(とばり)()りし  宗遠(むねとお)は 
”これこれ御事(おこと)は  何者(なにもの)ぞ”
(わし)ははるばる  奥州陸奥(みちのく)で 
 義兄(あに)旗挙(はたあげ)げ  ()きにしを 
 人馬諸(じんばもろ)とも  ()(さん)じ 
 九郎義経(くろうよしつね)  なるものぞ”
涙流(なみだなが)せし   異母兄弟(きょうだい)に 
居並(いなら)(ものども)    もらい()き 
                                                  トップへ
六、平家追討(へいけついとう)
(その一) 出陣(しゅつじん)
セエー   聞いてください
聞いてください  みなさまよ
土屋宗遠(つちやのむねとお)   一族(いちぞく)
猛者(もさ)のたしなみ  弓矢張(ゆみやは)り 
()ごろ(きた)えし  この(うで)
鎌倉殿(かまくらどの)に  (ささ)げたや
木舟神社(きぶねじんじゃ)の  神前(しんぜん)で 
戦勝祈願(せんしょうきがん)の  つわものよ 
                                                   トップへ
(その二) 熊野分霊(くまのぶんれい)                         
セエー   聞いてください
聞いてください  みなさまよ
夕日沈(ゆうひしず)みし  西海(さいかい)
平家倒(へいけたお)せし  土屋党(つちやとう)
戦勝誇(せんしょうほこ)る  (とき)(こえ) 
凱旋途中(がいせんとちゅう)の  紀州(きしゅう)では
熊野権現(くまのごんげん)  分霊(ぶんれい)を 
(みの)(つつ)んで  小熊野(こぐまの)に 
宗遠公篤(むねとおあつ)く  (たてまつ)る 
                                                  トップへ
七、土屋名代(つちやなだい)
セエー 土屋名代(つちやなだい)は 
(はる)(さくら)の  愛宕山(あたごさん)
(あき)はまつりの  お(くま)さん(熊野神社)
聞いてください みなさまよ
熊野神社(くまのじんじゃ)の  御霊(みたま)には
紀州熊野(きしゅうくまの)の  分霊(ぶんれい)
輿(こし)(かつ)がれ   里里(むらむら)
まつり太鼓(だいこ)に  ()かれしを
(むら)(わか)(しゅう)   (そろ)()
(くま)さんへの  この(さか)
なんのそのよと   ()()がる
                                              トップへ
八、いざ鎌倉(かまくら)和田(わだ)(らん)
(その一) 恩義忠義(おんぎちゅうぎ)
セエー   聞いてください
聞いてください  みなさまよ
土屋次郎(つちやのじろう)   義清(よしきよ)は 
(ちち)岡崎(おかざき)   義実(よしざね)
真田与一(さなだのよいち)を  (あに)にして 
相模一(さがみいち)の   名門(めいもん)に 
()まれし御世(みよ)に  (ほこ)りあり 
和田義盛(わだのよしもり)   一党(いっとう)に 
恩義(おんぎ)忠義(ちゅうぎ)の  ためならば 
鎧兜(よろいかぶと)で    ()(さん)
                                              トップへ
(その二) 義清討死(よしきようちじに)
セエー   聞いてください
聞いてください  みなさまよ
土屋次郎(つちやのじろう)  義清(よしきよ)
()いの養父宗遠(むねとお)  (のこ)しつつ
袖切坂(そできりざか)を  ()()りし 
杜鵑山(とけんやま)へと  ()()がる 
(おも)いめぐらし  義清(よしきよ)は 
鎌倉(かまくら)めがけ  磯伝(いそづた)い 
若宮通(わかみやどお)り  赤橋(あかはし)で 
鏑矢義清(かぶらやよしきよ)  射止(いと)めたり 
無念相模(むねんさがみ)の  つわものよ 
                                                  トップへ
九、実朝対面(さねともたいめん)金槐和歌集(きんかいわかしゅう)
セエー   聞いてください
聞いてください  みなさまよ
相模(さがみ)猛者(もさ)の  宗遠(むねとお)は 
鎌倉幕府(かまくらばくふ)の  功労者(こうろうしゃ) 
隆盛誇(りゅうせいほこ)った  宗遠(むねとお)
(とき)(なが)れに  ()()れず 
なくなくむかしの  物語(ものがた)り 
実朝公(さねともこう)が  ()きにしを 
金槐集(きんかいしゅう)に (うた)()み (注) 金槐和歌集
                                                  
                                                  トップへ
十、七国峠(ななくにとうげ)供養松(くようまつ)
セエー   聞いてください
聞いてください  みなさまよ
相模(さがみ)のもののふ  宗遠(むねとお)は 
旗挙(はたあ)以来(いらい)の ()どもらに(一族郎党) 
七国峠(ななくにとうげ)の  供養松(くようまつ) 
卒寿(そつじゅ)宗遠(むねとお)  阿弥陀寺(あみだじ)を (注) 菩提寺(ぼだいじ)芳盛寺(ほうせいじ) 
空阿(くうあ)(ごう)で  建立(こんりゅう)す 
隆盛誇(りゅうせいほこ)った  宗遠(むねとお)
相模(さがみ)猛者(もさ)の  運命(さだめ)よな 
                                                  トップへ
十一、土屋(つちや)の御宝(おんたから)
セエー   聞いてください
聞いてください  みなさまよ
五月八日(ごがつようか)の  墓前祭(ぼぜんさい) 
(いま)(つた)えし  館跡(やかたあと) 
土屋宗遠(つちやのむねとお)   (のこ)したる 
有形無形(ゆうけいむけい)の  御宝(おんたから) 
大事(だいじ)(まも)ると  (わか)(しゅう) 
熊野神社(くまのじんじゃ)の  神前(しんぜん)で 
(かみ)(ちか)って  (せい)ぞろい 
笹竜胆(ささりんどう)の  ()のもとに 
土屋(つちや)(しゅう)の  心意気(こころいき) 
土屋自慢(つちやじまん)の  意気込(いきご)みよ 
千代(ちよ)八千代(やちよ)に  繁栄(さかえ)あれ 
                                                  トップへ
●◎・・・◎●
[登場人物の年表]
    [西暦]  1128  1146   1155   1158〜1160頃  1161〜1164頃   1180   1191  1192   1213  1218 1219
(主な事柄)・・平氏に内昇殿を許す・保元の乱・平治の乱・平清盛太政大臣   ・頼朝挙兵  ・鎌倉幕府・和田の乱
土屋三郎宗遠 誕生  18歳  27歳   30〜32歳   3336歳     52歳  63歳  64歳  85歳  90歳没
土屋次郎義清                誕生             2022歳   3234歳 5355歳没
土屋弥次郎忠光                        誕生     1619歳没
真田与一義忠          誕生                    25歳没
和田   義盛     誕生                         34歳          67歳没
源   実 朝                                      誕生            28歳没
源   頼 朝      誕生(1147)                      33歳         52歳没(1199)
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相州(そうしゅう)土屋三郎宗遠公甚句(つちやのさぶろうむねとおこうじんく)(改訂版) も く じ

一、土屋三郎宗遠公
            二、石橋山[相模のもののふ旗挙げ]

   三、鵐の窟[蜘蛛の糸]            四、岩の浦[七騎落ち]

     五、黄瀬川対面[義経]           七、土屋名代

       六、平家追討(一、出陣         六、平家追討(二、熊野分霊

     八、いざ鎌倉(一、恩義忠義[和田の乱] 八、いざ鎌倉(二、義清討死

   九、実朝対面金槐和歌集]    十、七国峠の供養松    十一、土屋の御宝
       
                                         ●登場人物の年表
[解説] 石橋山(相模のもののふ旗挙げ)

 1180年(治承4年)8月、源頼朝を大将とする源氏軍は、8月17日に流人監視役の山木兼隆の館を急襲した。8月23日には、石橋山で大庭景親を大将とする平家軍三千騎と戦った。この時、源氏軍は三百騎。多勢に無勢とは、まさにこのことか。
 折りしも夜に入り、大雨の中の激戦となり、この時宗遠の嫡男忠光と甥の真田与一義忠(養子土屋次郎義清の兄)は、激闘の末討死した。この土屋忠光は、石橋山の戦では四十六騎のひとりに数えられていた。
 与一は岡崎義実の嫡男で、真田郷(現在の平塚市真田)を領していた。時に与一は25歳。与一の郎党陶山文三家安も討死(57歳)した。
 土屋の丘陵地と異なり、伊豆の山々は奥深く、また非常に険しく激しい起伏がある山岳地帯だ。その石橋山での戦は、想像に絶する激闘が繰り広がったのであろう。
[解説] 土屋三郎宗遠公

 宗遠は、平安時代後期1128年(大治3年)桓武天皇の後裔で坂東平氏の村岡五郎良文流中村荘司宗平と同じく坂東平氏の三浦氏の女との間に三男として誕生した。(中村荘は現在の中井町)
 長じて(23歳頃)、三浦氏の女を妻として、ここ土屋郷に「開発領主」として分家し、「土屋三郎宗遠」と称した。
この宗遠こそが「相州土屋氏」の始祖である。
 中村党を代表する兄の土肥次郎実平(現在の湯河原町)や実姉桂御前の夫で三浦党の岡崎四郎義実(現在の平塚市岡崎)など、その両党は相模湾沿いの広大な領地を地盤に着々とその実力を蓄えていき、強力な「相模の武士団」に成長していった。
 折りしも、伊豆の蛭ケ小島に配流されていた源氏の嫡流「源頼朝」を担ぎ上げ、「この世は我が世」と隆盛を誇っていた平家の打倒にその策を練り、ここに「世直し行動」(いわゆる”クーデター”)に立ち上がった。時に宗遠52歳であった。
 相州:相模の国。現在の神奈川県(川崎市と横浜市の一部は除く)である。
[解説] 鵐の窟(蜘蛛の糸)

 石橋山で敗れた源氏軍は、散り散りになった。大将の頼朝をはじめ土肥実平・遠平父子、土屋宗遠、岡崎義実、安達盛長、田代信綱、新開忠氏の主従八騎が敗走し、土肥郷の椙山の奥に潜入した。鵐の窟という谷間に下りると大洞のある伏木があったので、主従はその大洞の中に隠れた。
 そこへ大庭景親が平家の面々と追いかけてきて、大庭が大きな伏木を見つけた。
「その伏木の中が怪しい。空洞の中を探してみよ。」といった。この時、平家の梶原景時が伏木の中を窺ってみると、その中には頼朝主従が隠れていて、頼朝と景時の目と目が見合った。景時は機転を利かして弓や兜に「蜘蛛の糸」を付けて、「中にはアリ、ケラ一匹もいない。」といった。
景親は不審がって、自ら大洞を探ろうとするが、景時は太刀に手をかけて、「御辺自ら洞を探ろうとするのは、景時を二心あるものと疑ってのことか。そのような不信の行為をされるならば、梶原の面目にかけて、誰にもこの洞を探らせぬ。」と叫んで仁王立ちになった。
 この景時の厚情により主従は難を逃れることができた。
この時のこの景時の機転が日本の歴史に大きな影響を与えたといっても過言ではあるまい。
 景時は、後に述べる義経に対する讒言ごとがあったり、鎌倉幕府の御家人衆や執権北条氏から排除される運命になる。
 皮肉なことに椙山での厚情は何であったのか。景時の策謀の裏が見えるようだ。

[解説] 岩の浦(七騎落ち)

 8月28日、頼朝ら主従八騎は、椙山の難を逃れやっとのおもいで土肥の東隣り「岩の浦」の浜(現在の真鶴町岩)にたどり着いた。
 この浜から小舟で安房の国へ目指し落ち延びようとした。小舟を用立てたのは土肥実平の嫡男土肥遠平で、遠平一人を残した一行七騎は、急ぎ安房へと向かった。これが世にいう「七騎落ち」である。
 そこへ大庭景親ら平家のものどもが現れ、一行の小舟を見つけた。景親は、「あれは、佐殿(頼朝)であろう。弓や槍が見える。あの小舟を止めろ。」と怒鳴った。
側にいた平家の武者が、「いえいえ、あの小舟はこの岩浦の漁師が鯨捕りに向かうところで、あの槍は鯨捕りの槍だ。」と、即座に答えたという。
 ここでも、平家方の一武者の厚情により難を逃れたのである。
 8月29日、主従七騎は、無事に安房の国猟島に上陸した。
その後の頼朝は、関東武士の強力な援護を受けて、10月6日源氏ゆかりの地鎌倉に入ったのであった。その行列に加わった数は5万騎に達した。

[解説] 黄瀬川対面(義経)

 9月29日平清盛は、嫡孫平維盛を総大将とする頼朝追討軍5万騎を発した。
 頼朝は、20万騎の軍勢でこれを迎え撃たんとして鎌倉を発し、10月20日に、富士川で対陣した。
 平家軍は戦わずして潰走したのであり、石橋山の敗走以来、ここに至るまで50日余りで、驚嘆というほかない。
 源氏軍は、一旦東の黄瀬川に戻り陣を張った。その夜、頼朝の戸張を固めていた実平と宗遠兄弟は、陸奥で「頼朝旗挙げ」を聞きつけた異母兄弟である源義経と逢った。最初は怪しきものと思ったが,話を聞きすぐに事の次第が分かり、頼朝公に案内した.。
 頼朝と義経の異母兄弟は、長年の辛苦を互いに噛み締め、またその思いを語らずして、涙を流しながら確認しあったのであろう。
 さすがの相模の剛の武者(つわもの)どもも、涙を流さずにはいられなかった。
 ここに、主従の一層の結束が生まれたのである。

[解説] 平家追討(出陣)

 相模のもののふ宗遠は、日常の武力の鍛錬はもちろんのこと、この土屋の未開な谷戸や丘陵地を次々に開墾して田や畑に開発していかねばならなかった。ときには、鍬や鎌を持ち農民達と開墾に汗を流していた。
 宗遠にとって、その両面を管理することは、大変なことであった。
 武士の時代であり、弓矢の腕も磨くのは当たり前のことであった。これも全て自分達のため、鎌倉殿のためと日夜鍛錬に余念がなかった。
 戦の前に土屋の党は、いつも館の東の台地にある馬場に勢ぞろいして、馬場の南に鎮座する木舟神社に戦勝祈願した。

[解説] 平家追討(熊野分霊)

 1184年(寿永3年)鎌倉殿のご沙汰があった。源義経を総大将に、錚々(そうそう)たる関東武士団は、平家追討のため西海へと向かった。中村党(土肥・土屋党)は、義経軍に加わった。この時、源範頼も総大将として、平氏討伐のため西国へと向かった。皆それぞれ後の運命は知らずして・・・・・・
 この時の義経の活躍ぶりはあまりにも名高い。しかし、景時の讒言(義経の不義を訴える)などで、その英雄は非業の道へと導かれていったのである。(義経の起請文、腰越状、・・・・・奥州での最後)
 1185年(元暦2年)3月24日、平家は屋島・壇ノ浦の戦で西海の藻屑となり滅亡するが、この時の土屋・土肥いわゆる中村党の働きは大なるものがあった。
 宗遠率いる土屋党は、この凱旋途中に紀州(現在の和歌山県)に熊野権現を訪れ、霊験あらたかな「熊野の御霊」を分霊していただき、蓑に包んで土屋郷に持ち帰った。そして、この小熊野の地に篤く奉り、土屋熊野神社として勧請し崇拝した。
 この時、熊野の守り役として、当地紀州の武士「蓑島氏」を招聘(しょうへい)したという。
[解説] 土屋名代

 土屋には名高いものが数多くある。
 春は、桜の園となりたくさんの人々が花見に訪れる「愛宕山自然公園」、4月の始めから早田造化神社の例祭、惣領分八坂神社の例祭、上惣領(矢沢)愛宕神社の例祭と続く。
 秋の9月下旬には、稲穂の実りとともに熊野神社の大祭が執り行われる。5台の山車で太鼓連が威勢よく「まつり太鼓」を打ち鳴らし、稲穂を咥えた「鳳凰」が神輿の上で揺れながら「神輿渡御」が行なわれる姿は何ともいえない気分になる。
 これは「次世代を担う若い衆」の意気の合ったところを見せてくれる「希望と勇気が湧く」瞬間でもある。


[解説] いざ鎌倉・和田の乱(恩義忠義)

 義清は、父に相模の雄三浦氏の岡崎四郎義実を、母に宗遠の実姉桂御前(中村氏)とする、相模の両名門の血を引くもののふとして1158〜1160年(保元3年〜永暦元年)ころ誕生した。
 叔父の宗遠には、はじめ子がなかったので、義清の実母の弟宗遠の養子となり、「土屋次郎義清」と称した。
 兄の与一義忠は、真田郷の開発領主として、武勇に秀でた武将で、石橋山の合戦で討死したことは、あまりにも有名である。
 義清も兄に劣らぬ名将となった。幕府の御家人としてその信頼は次第に高まっていった。
 しかし、1213年(建保元年)、三浦氏の一族である鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛は、時の執権北条氏に深い疑念を持ち、勢力争いが激化し、遂に武力によって立ち上がった。これを和田(義盛)の乱、和田合戦という。義盛67歳の年であった。
 この義盛に味方したのは、ごく一部の御家人であった。
義清は、義盛に対しては身内であり、恩義忠義のため参陣せざるをえなかった。

[解説] いざ鎌倉・和田の乱(義清討死)

 義清は、85歳になった老いの養父宗遠に気遣いながら涙を呑んで鎌倉へと向かわなければならなかった。
 土屋党の一族郎党(4人の息子と5騎の郎党)を引き連れて、熊野神社と木舟神社に戦勝祈願したのち、馬場下の袖切り坂を駆け下り、急ぎ琵琶の杜鵑山へと駆け上がった。
 ここは土屋から大磯の浜へと抜ける最短の道である。杜鵑山へ登り振り返ると土屋の館付近からうす煙が見えた。
 「やはり(土屋に)戻るべきか。いや、それとも(鎌倉へ)行くべきか。」・・・・・義清は、しばらく思い悩んだ。
 ・・・・・”いこか鎌倉 もどろか土屋 思いみだるる杜鵑山 いまも血に鳴くほととぎす」・・・・・という古謡が、今日もこの土屋に伝わっている。
 しかし、和田殿には「恩義忠義のため何がなんでも馳せ参じなければならぬ。」と、急ぎ鞭打って黒岩から磯へと、鎌倉めがけ駆け下りて行った。

 そして、5月2,3日の二日間にわたる激戦の末、和田軍、土屋党とも不利な情勢となり、ついに義清は若宮通りの赤橋にさしかかった折に、流れ矢に当たり、壮絶な最後を遂げた。義清ときに53〜55歳であった。
 土屋党の10騎は、この戦闘で全員命を落としたのであり、宗遠の身にとって大きな衝撃となったことは否めない。
 義盛も討死し、これで和田の乱は暗い幕を閉じたのであった。

[解説] 実朝対面(金槐和歌集)

 和田の合戦で義清ら一族郎党を失った宗遠は、失意のどん底にあった。治承4年の華々しい源氏再興の旗挙げ以来、相模のもののふとして、中村党として、土屋党の統領として、宗遠は鎌倉幕府の創設に多大な功労を成し遂げた。
 その数々の功労とは裏腹に、時代はそう簡単には流れてはくれなかった。戦のたびに失った息子たちや身内の者、幕府においては開府時の思惑とは異なった政治的な流れ、御家人同士の争い、執権北条氏の動き等々・・・なんと無念なことか。1209年(承元3年)5月幕府のためにと飯島(西浜)で、将軍家に不忠な者と予てより恨みを抱いていた梶原景時の孫家茂を刺し殺したこともあった(西浜事件)。
所領争いに手を染めたこともあった。・・・・・
 先行き長くはない身を感じ、腰を二重に折った宗遠は、遠く土屋の地から杖をつきつき鎌倉まで行き、90年近くこの修羅場を通り抜けてきた数々の思いを、三代将軍源実朝に一言言上しておきたかった。
 殿上に座す三代将軍実朝は、しずかに耳を傾け、宗遠の泣く泣く語る「むかしばなし」に聞き入った。実朝はただただうなずくだけであった。
 実朝は、後に金槐和歌集(下之巻 雑部)に詠み、鎌倉幕府樹立の功労者宗遠の労苦を労った。その実朝も、宗遠が亡くなった翌年の1219年(承久元年)甥の公暁によって暗殺された。時に実朝28歳。

[解説] 七国峠の供養松

 老いた宗遠は、庶子分大庭にある「土屋の館」で晩年を過ごした。そこは、二十代前半の血気盛んなときに中村から分家し、土屋郷の開発領主として70年余り過ごしてきた地であった。三浦から妻を娶り、甥の義清を迎え、数人の子どもたちにも恵まれた。時代が大きく変わろうとするその時に、頼朝公を担ぎ相模の剛の武士たちとともに大芝居を打ったりもした。ときに宗遠52歳。
 石橋山では、嫡男忠光や家の子郎党を失い、幕府の御家人として労を費やした。また、宗遠が85歳のときには、和田の合戦で養子義清を失い、それは失意の連続でもあった。
 そんな主人のために、命を惜しまず勇敢に戦ってくれた子どもたちや郎党どもに、供養をしたのであった。伊豆や相模や房総が見渡せる七国峠には、供養の松を植えた。
 また、九十に近い宗遠は惣領分の若葉山に阿弥陀寺を建立し、菩提を弔った。宗遠は、法名を「空阿(くうあ)」といった。
 このあまりにも波乱に満ちた宗遠の人生こそが、武家政権の樹立を成し遂げた「相模のもののふ」の姿であったのかもしれない。
 このように「相模のもののふ宗遠」は、数々の想いを秘めて90年の生涯を終えるのであった。1218年(建保6年)8月5日、それは夏の暑い盛りの日であった。

[解説] 土屋の御宝

 宗遠が遺してくれた精神的、物質的な遺産は大なるものがある。八百年という重みも、これまた大きなものがある。
 熊野神社、土屋の館跡、土屋氏一族の墓、大乗院、阿弥陀寺(現芳盛寺)、七国峠、杜鵑山、水呑地蔵などその「有形無形の宝」が、今日まで脈々と伝え引き継がれ、私たちの前に息づいている。
 「土屋三郎宗遠公遺跡保存会」が、「土屋の館跡」の維持整備や「土屋氏一族の墓」の保存整備と墓前祭を行なっている。宗遠とその一族の功労を称え、供養することで、土屋に住む私たちは感謝の念で大事に守っていきたいものだ。
 墓前祭を「5月8日」に行なっているのは、次のような訳がある。
本来宗遠公の命日は「8月5日」であるが、8月は農家の仕事(タバコの収穫で多忙)や盆月でお寺も忙しくなるので、命日を「反対に読み」5月8日にしたという。この日に、大乗院の住職が導師となり、念仏講のみなさんや遺跡保存会の人たちが墓前にゴザを敷いて念仏供養をする。
 未開の土地を開墾し、現在の谷戸田や丘陵台地に広がる畑など、その基盤づくりをしてくれたのも宗遠であろう。
 宗遠の力は精神的にも物質的にも偉大であった。それを引き継いでこられた「土屋の人々」は、より偉大であろう。
 私たちは、このすばらしい土屋の宝を子々孫々まで末永く守り伝えていく使命がある。
 次世代を担う若者たちが、若い衆が、この「土屋の御宝」の意義を十分理解し、行動に移すことを期待したい。
 私たちの土屋が「よりよい土屋」で在り続けるために・・・・・