小田原用水
おだわらようすい



小田原用水
小田原用水は戦国時代に北条氏が城下町を潤す為に
施設した日本最古の上水道と言われます。
記録として最古のものは天文14(1545)年連歌師谷宋牧の東国紀行に、
『水上は箱根の水海よりなどきき侍りて驚ばかりなり』とあり、
北条氏康・幻庵の誘いで屋敷に招かれた際に、
池の水が箱根芦ノ湖を水源とした早川より引いたと聞いて驚いたとあります。

小田原用水マップ
こちらの画像は小田原市教育委員会が作成した資料、
『歩く・見るおだわらの城下町・宿場町』及び小田原市道水路整備課の『河川排水路網図』を元に、
作成した江戸時代の小田原の城下町の地図です。
小田原用水と関連性の高い現在の排水路を水色のラインで示しました。

並びにこれより先は『小田原まちあるき指南帖5小田原・荻窪用水の巻』及び、
『日本最古の水道「小田原早川上水」を考える』を主な参考文献として使用させていただきました。

小田原用水取入口
@小田原用水取入口
まずは取水口からスタートします。
国道一号線と東海道の旧道との『上板橋』という交差点近く、、
おとう坂と言われるゆるい坂道に小田原用水取入口とあります。

小田原用水取入口の説明板
小田原用水取入口の説明板です。
早川上水とも書かれていますが、小田原用水は様々な呼び方があります。
当サイトでは一般に馴染みの深い『小田原用水』と呼ばせて頂きます。


この画像の通り早川は富士山に向かって流れます。
しかし、富士山は天然の岩山、早川はここで流れの向きを変えます。
この地点に目をつけたのが北条氏です。
日本最古の水道、小田原用水の取水口が富士山の裾に造られます。

小田原開城後徳川家康が神田上水を整備しますが、
小田原と同じように川の流れの変化があるところに取水口に設けています。
小田原用水を参考にしたのではないかと言われています。

早川の分水地点
画像は早川の分水地点です。とても清らかな水の流れですね。
左の早川本流に対して取水口の方が高いのが解りますでしょうか?

左の小高い山は石垣山一夜城、右には象ヶ鼻と言われる断崖絶壁があります。
文永11(1274)年、鎌倉時代に日蓮上人が象ヶ鼻の上に登って、
故郷の房総半島を望み、経文を読み宝塔を立てたと言われ妙福寺というお寺さん出来たようですが、
現在は蓮生院と合併して板橋の生福寺として残ります。

取入口の水門
取入口の水門です。
この水門周辺は水神の森と言われる場所です。

石碑や祠
取入口付近には石碑や祠が置かれています。祠は水神を祭るものですが、
下魚に大久保家の家紋が刻まれており江戸時代ものだと言われます。
水神の森の字と関係がありそうですね。

石碑は『頌徳碑』と題され明治期の板橋地区、大窪村の村長市川文二郎を讃えるものです。
市川文次郎が村長の時、明治21(1888)年の小田原町との分水事件、
明治29(1896)年の静岡県の深良用水との芦ノ湖の水利権を争った逆川事件、
これら2つの事件の解決に尽力した功績が認められました。

木食観正の石碑
こちらは小田原に現れ獄死した遊行上人、木食観正の石碑です。
『今弘法』と庶民から崇められたようですね。

分水路
取水口を出たところの直ぐに左の早川本流側、右の国道側に分かれる分水路があります。
右の国道側の水路が小田原用水としての本流です。
これより先は本流の小田原用水を辿ります。

箱根登山鉄道の陸橋
A板橋界隈
上板橋の交差点を渡ると箱根登山鉄道の陸橋が見えます。
左に見えるのが小田原用水です。

小田原用水
上板橋の交差点から用水を覗くと家の間を縫うように小田原用水が流れているのが解ります。
途中に小さい橋がかけられていますね。

寿橋
その小さい橋の一つには寿橋という名前がついた橋があります。
子供がこの場所で流されたようで、当時は流れも早く水量も多かったようです。

『朧夜や旅の子想ふ親心』と刻まれています
大正10年に建てられたられた小さな石碑には、
流された子供の母親セイさんの詩『朧夜や旅の子想ふ親心』と刻まれています。

嵯峨侯爵邸の建物を移築した民家
小田原用水は民家の間を流れてしまっていますので、旧東海道の板橋界隈を歩きます。
この民家は東京の嵯峨侯爵邸の建物を移築したものです。

板橋地蔵尊
画像は板橋地蔵尊です。
毎年1月と8月に行われる縁日の日に亡くなった人に瓜二つの人に出会えるなど、
いろいろといわれの多いお寺さんです。

植村邸
こちらは向かいの植村邸、昭和3(1928)年頃に建てられたそうです。
元は評判の良いお蕎麦屋さんだったようで、
こうした古い建物には出格子窓になりわいの特徴が出るのです。

内野醤油店
画像は内野醤油店です。
明治36年創業、日露戦争の勝利から武功と名づけた醤油を製造販売しますが、
昭和49年で醤油の製造販売を行っていません。
板橋界隈の古い町並みは風情を感じる素晴らしい町並みですので合わせてご見学ください。

松永記念館入口
B邸園と小田原用水
内野醤油店の手前で再び小田原用水が顔を出してくれています。
松永記念館入口の案内もありますね。

かつては水車が設置されていました
画像は製麺工場になりますが、かつては水車が設置されていました。
米の流通が統制される昭和10年まで小田原用水沿いには、
28軒の米屋があり水車もたくさん並んでいました。
用水の管理には精米業者が尽力を捧げていました。

小田原用水はこの先で直角に折れ曲がります。

松永記念館
小田原用水から外れてそのまま真っ直ぐ進み近くの松永記念館に立ち寄りました。
敷地沿いには荻窪用水の分水、板橋用水が流れており小田原用水と合流します。

板橋用水との合流点
画像は板橋用水との合流点、内野醤油店の裏近くです。
板橋用水は暗渠になっており、高林寺さんの手前の路地を進み途中で折れ曲がります。

板橋用水との合流点
合流点を近くで撮影してみました。
かなりの水量ですが、水がとても綺麗ですね。

小田原用水
再び小田原用水を歩きます。
用水に面した家が立ち並びますが、
用水を利用していたかつての生活が思い浮かびますね。

カワバタ
この画像はカワバタと言われる石段です。
セド、イド、ゴウド、カワドなど各地によって呼び名がいろいろとあるようです。
小田原用水では飲料水として使われていた為、洗濯や洗物をする事は厳しく罰せられました。

古稀庵へ通じる交差点
画像は明治の元老山縣有朋別邸古稀庵へ通じる交差点です。
古稀庵の流水庭園の為の水道、『山縣水道』の配管が通っていました。
配管に使われたのは6インチの鋳鉄管で当時国内で生産ができなかった為に、
軍艦の材料としてわざわざイギリスから輸入しました。

古稀庵流水庭園
画像は古稀庵の流水庭園です。
毎週日曜日に入場料100円にて公開されております。

『山縣水道』は荻窪用水の分水を古稀庵の流水庭園まで送水する私設の水道です。
その仕組みは高低差による水圧を利用した逆サイフォン方式で、
標高95mに位置する水之尾の山縣水道水源池の沈砂池に貯槽し、
標高16.5mの板橋の国道一号線まで降ろし国道をつたって標高35mの古稀庵まで送水します。

山縣水源池
画像は山縣水源池です。
山縣水道水源池の規模は直径26m、深さ4m、底直径17mにもなり、
山縣水道の総延長は約1,820mにも及びます。
隣接する閑院宮邸や益田孝の掃雲台等他の別荘にも分水しました。

割烹旅館山月
古稀庵の向かいにある割烹旅館山月は,
大成建設創業者大倉喜八郎別邸、共壽亭(きょうじゅてい)です。
お庭は無料で開放されていますが、建物の見学にはお食事をする必要があります。

古稀庵の流水庭園の排水
画像は再び小田原用水へ古稀庵の流水庭園の排水です。
庭園の為の水ですので綺麗ですね。

益田孝別邸掃雲台跡
こちらは三井物産創始者鈍翁こと益田孝別邸掃雲台跡です。
益田の招きで多くの政治家や軍人、実業家が小田原に別邸を構えたと言われます。
益田は小田原用水で獲れるシジミを好み食したと言われます。

かつてはコンクリート造りではなくウナギや鮎なども獲れた
地元のお爺さんに話を聞くとかつてはコンクリート造りではなく、
ウナギや鮎なども獲れたと言われていました。

職業技術校の前の分水地
C東海道水道筋〜小田原城まで
画像は職業技術校の前の分水地です。
左が山側で小田原城のお堀まで流れる小田原用水となります。
右は余水を流す新川に流れます。

除屑機
こちらは新幹線のガード下に設置してある小田原用水に流れるゴミを除去する除屑機です。
画像左のベルトコンベアに一定の間隔で爪が備え付けられていて、
爪に引っ掛けて除去する装置です。

用水は光円寺の脇へと流れます
用水は光円寺の脇へと流れます。
光円寺は春日局の息子稲葉正勝が小田原城主になった時に開いたお寺で、
春日局のお手植えの銀杏が現在も聳え立ちます。

小田原用水のマンホール
小田原用水のマンホールです。
光円寺の脇を通った用水は地中配管となります。
暗渠になったのは江戸時代、稲葉氏の入城からと言われ、
どの絵図面にも東海道には小田原用水が描かれていません。

板橋見附の交差点
画像は板橋見附の交差点です。
用水は国道の中心を東に向かい走ります。
板橋という地名は太田道灌が名づけたという文献もあるようですが、
板橋見付で小田原用水にかかっていた板橋から名づけられたのが有力な説です。

居神神社境内に残る水神を祭った祠
画像は居神神社境内に残る水神を祭った祠です。
居神神社の御神体は早雲公に滅ぼされた三浦荒次郎義意の他、木花咲耶姫命、火之加具土神ですが、
天正16(1588)年の伝肇寺文書には井神の森と記載されており、
居神の居は元々『井』又は『堰』とも言われ水神を祭った神社とも言われます。

御組長屋
画像は御組長屋という地名が残る近辺です。
板橋見付に近いこの辺りには鉄砲、弓足軽が有事に備え住んでいました。
小田原用水の管理も行っていたとも言われます。

早川口交差点
画像は早川口交差点です。
国道一号線の中心が盛り上がっているのが解りますでしょうか?
丘陵地の東海道の中心を流れる用水から左右の町に対して、
自然に水が流れる仕組みになってました。

ういろう
天守のような建物見えてきましたが、ういろうさんですね。
ういろうというと名古屋が有名ですが実はこのお店が発祥です。
ういろうさんからは平成6(1994)年の蔵の建替えの時に、
用水を引き水量調整や不純物を取り除くための石組みの水路と枡が出土しました。

小田原城下のその他の場所では木でできた木管や竹製の竹管も出土しています。

御幸の浜交差点
小田原用水は山角町、筋違橋町、欄干橋町、中宿町へと流れ、
本町に差し掛かる御幸の浜交差点で折れ曲がり城址公園へと流れます。
これより先は東海道にも流れますが、現在の小田原用水は排水路という扱いになります。

二の丸のお堀
城址公園のお堀です。現在のお堀は二の丸のお堀ですが、
明治以前では三の丸のお堀に小田原用水の水が引かれていたようで、
二の丸のお堀に小田原用水の水が引かれた証拠が見つかっておりません。
おそらく天然の湿地帯を利用したお堀でしょう。

お堀の取水口
現在のお堀の取水口です。4箇所あります。
鯉も元気に泳いでいますね。
このお堀に小田原用水が引かれたのは近年になってからで、
お堀の水質改善の為に小田原用水を取り入れることになりました。
二宮神社の近く、図書館や郷土文化館のある南曲輪側のお堀は、
地下水をポンプで組み上げています。

宮前町
D小田原城から終点蓮池まで
再び国道一号線に戻ります。
現在の国道一号線は宮前町の前で北に折れ曲がりますが、
小田原用水は旧東海道に沿ってそのまま真っ直ぐに進みます。

なりわい交流館
宮前町のなりわい交流館です。
小田原用水が再現されていますが、ポンプで水道水を循環させるレプリカです。
実際の小田原用水は暗渠で位置も道路の反対側になります。

万町(よろっちょう)
小田原用水はさらに万町(よろっちょう)へと進み、
画像奥の突き当たりから左に曲がります。

蹴上坂
画像は蹴上坂と呼ばれる坂道です。
ここを現在の国道一号線に向かい流れますが。
画像右の路地にも用水が流れていたようですが残念ながら資料がありません。
今後調査を進めたいところです。

江戸口見附
画像は江戸口見付です。小田原城の江戸側の出入り口になります。
小田原用水は一度国道一号線に戻りますが、江戸口見付を避けて護摩堂川と合流します。

護摩堂川と渋取川との合流点
画像は小田原用水が合流した護摩堂川と渋取川との合流点です。
どちらも暗渠になっています。
渋取川は小田原城大外郭の外堀を兼ねた川ですが、
現在は荻窪用水の水が流れています。

蓮池想定地
画像は終点の蓮池想定地です。
護摩堂川は小田原城のお堀からの排水路ですが、
この蓮池は小田原用水と小田原城のお堀の調整池の役目をしていました。
江戸時代稲葉氏入城以来からこの蓮池には土橋がかけられ東海道の入口として機能しました。

以上が小田原用水の本流です。
小田原用水は時代によって使われ方や水路も追加されたり変革していきました。
今回掲載できなかった水路の存在もありますが、資料が殆どありません。
今後も調査を継続していきます。


引用・参考文献

平井太郎 2008 小田原まちあるき指南帖2 弐・板橋・西海子界隈の巻 小田原まちづくり応援団
平井太郎 2011 小田原まちあるき指南帖5 小田原・荻窪用水の巻 オルタナティブ近代化遺産研究会
石井啓文 2004 日本最古の水道「小田原早川上水」を考える 夢工房


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