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現在までの活動 (最終更新日:2005/01/24 レポート:京) |
■トノート村を調査 2004年10月、2度に渡って、色のない空基金参加者の京と中村が、 シェムリアップ在住のカンボジア人協力者と共にトノート村へ訪れました。 トノート村は、ポンナレットの母姉妹が虐殺され、現在も遺骨が眠っていると思われる場所です。 ↓おおまかな地図。シェムリアップから自動車で1時間半〜2時間の場所。
村人から以下の情報を得ることが出来ました。 ●1975年4月〜1979年1月の約4年間、ポル・ポト派の命により、強制労働、虐殺が行われていた。 上記写真の白いゲートには「ポル・ポトにより虐殺が行われていた場所」と書かれている。 ●1979年、村人の手によってタロイモ畑から大量の虐殺された方の遺骨が掘り起こされた。 (※注:1979年、現政府により「ポル・ポト派がいかに残虐であったか」を世界にアピールするため、 カンボジア各地でキリング・フィールドと呼ばれる慰霊塔が建てられた。 トノート村も同様だと推測。)
●遺骨は、村の寺の前に木造の慰霊塔が建立され、入れられた。 数年後、風雨で慰霊塔が倒壊。 1997年、この村の出身の男性が、自費6000$を投じてコンクリート作りの慰霊塔を建立。 この男性は現政府の兵士だった方で、家族をポル・ポト時代に虐殺されていて、 その供養の意味も込めて慰霊塔を建立したとのこと。 現在はプノンペン在住だそうですが、連絡先は分かりませんでした。
●他に遺骨が埋まっている場所を聞いたところ、「あちらこちらの畑に埋まっている」とのこと。 「収容所だった建物の周辺にも埋まっているかもしれない」という場所は、現在も建物が残っていました。 現タロイモ畑から200mほど離れた場所で、白い壁で瓦屋根のついた、カンボジアでは立派な建物。 周囲は柵があり、立ち入り禁止になっている様子。 ポンナレットの記憶にある、収容所として利用されていた「元大学跡」だと思われます。
■遺骨収集、火葬、プノンペン移送の許可を頂く。 「遺骨を火葬してプノンペンのお寺へ納骨したい」という私達の願いを聞いた村人は、 近くのストウンの役所へ連れて行ってくれました。 紹介された方は、ストウン周辺で一番偉い郡長。日本でいう市長くらいの地位の方。 郡長は書類を作成し許可印を下さいました。 以下、書類の日本語訳。一部事実と異なる点は、右に記載します。
この書類は、以下を許可しています。 ・トノート村で遺骨を掘り起こすこと。 ・トノート村の慰霊塔にある遺骨を火葬、葬式を行うこと。 ・遺灰をプノンペンのお寺へ移送すること。 ・この書類は無期限有効であること。(有効期限が書かれていない) これにより、私たちの要望 「トノート村の遺骨を掘り起こし、火葬して、プノンペンのお寺に埋葬したい」 が可能になります。 ■トノート村を訪れた感想(京・日本人協力者) 慰霊塔には毎日お線香があげられており、お寺の目の前にあるので、毎日お経もあげられている。 お話を伺った村人は(英語で言うと)パゴダマスターと呼ばれる、お寺のお世話をする老人たち。 外見からみた年齢から、虐殺に関わった人かもしれない。 誰もが思い出したくないであろうあの時代の話を、その老人たちが静かに一生懸命説明してくれたこと、 毎日お線香をあげて手を合わせている姿勢に、心を打たれた。 ただ、私達はこの慰霊塔のような形式は"遺骨の展示"であり、慰霊ではないと考えています。 カンボジアの本来の葬式は、火葬・土葬であり、"遺骨の展示"は慰霊ではない。 そういった理由から、立派な慰霊塔で毎日線香をあげられているけれども、 伝統的な葬式を執り行い、火葬したい。 また、その遺骨のほとんどがプノンペンから強制移動されられた人たちであり、 皆、プノンペンに帰る日を夢みていた人ばかりです。 そのため、お墓に納骨するならば、プノンペンのお寺に連れて帰りたい。 改めてそう思いました。 |
■プノンペンのお寺を調査 2004年10月、色のない空基金参加者の京と中村が、プノンペン在住のカンボジア人協力者と共に プノンペンのワット・ランカーへ訪れました。 プノンペンの独立記念塔の前にあるワット・ランカー。 ここはポンナレットが10歳まで暮らしていたプノンペンの家の近くで、幼少の頃、よく通っていたお寺です。
大僧正はいらっしゃらなかったため、お会いできませんでした。 僧侶の方に寺を案内して頂きました。
ワット・ランカーには複数の遺灰を預かっているお墓がありました。 一時的にここで預かって頂けるそうです。
2005年4月調査へつづく |
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