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現在までの活動 (最終更新日:2005/07/07 レポート:京)

■トノート村へ再度訪問

2005年4月カンボジアお正月の時期に、色のない空基金参加者の京と中村が、
シェムリアップ在住のカンボジア人協力者と共にトノート村へ訪れました。

カンボジアの慣例に法り、まずは供物をお寺に持参し、お経をあげて頂きました。

半年前から、村は色々と様変わりしていました。
●慰霊塔には屋根が取り付けられていました。
 村人達の有志により取り付けられたそうです。
●新しいお寺が建築されていました。
 村人達の有志により建築費用が出されたそうです。




●村人達と慰霊について話し合いました。
 ・村のお寺で、いつでも葬式は執り行う。
 ・遺骨はこのままがいい。(つまり火葬やプノンペンへの移送はしない方がいい)
 ・遺骨を掘り起こしてもいいが、やらない方がいいのではないか。(つまりあまり掘り起こして欲しくない)

火葬について難色を示された根本的な原因は、村人達が「なぜ慰霊が必要なのか」を理解してくれなかった点です。
「毎日お線香をあげている。これでいいじゃないか」と言うのです。

遺骨を掘り起こす件で難色を示された理由は、これは予想ですが、
「過去の罪をこれ以上蒸し返して欲しくない」という理由ではないかと感じました。

これ以上の話し合いはポンナレット本人でなければ無理だと思い、引き上げました。


ポンナレットの願いの理由は以下の通りです。
 ・火葬
 →カンボジアの伝統的な慰霊は土葬か火葬。
  現在の慰霊塔は一部がガラス張りになっていて”展示”されている状態。
  母たちが”展示”された状態では忍びない。
 ・プノンペンへの移送
 →ポルポト政権下で殺された人たちのほとんどがプノンペンから強制移住させられた人たち。(私も含む)
  母たちはプノンペンに帰りたいと強く願っていた。
  だからプノンペンへ連れて帰りたい。
 ・遺骨掘り起こし
 →出来る限り多くの同胞をプノンペンへ連れて帰りたい。




●大学跡に実際行き、調査しました。
ポルポト政権下、大学校舎だった建物は、強制収容所として使用されていた。
(本当は高校だが、当時は高校も「大学」という扱いをされていた。)

その当時の校舎は2棟。現在も高校校舎として使用されていた。
高校生の人数が増えるに従い、周囲にさらに4棟の校舎が建て増しされていた。

村人の話では、この校舎は政治犯とされた人々を集める目的で使用されただけで、
実際殺した場所や遺骨が埋まっている場所は
キリングフィールドや畑に埋まっているとのことでした。
もしこの場所に遺骨が埋まっているとしても、
すでに建て増しやグラウンド整備などの工事が行われた後なので、遺骨を発見できるかどうかは難しい。

訪れた日はカンボジア正月中だったため、学校はお休み。校舎は鍵がかけられて中には入れない状態でした。
かつて強制収容所として使用されたとは全く思えない、とても静かでのどかな場所でした。
普段はきっと子供達の声が響く場所なのでしょう。

カンボジアに平和が訪れたことを嬉しく思う反面、
残虐が行われたことが忘れ去られようとしていることに憤りを感じました。




●キリングフィールド(虐殺現場)
トノート村のキリングフィールドは、寺にほど近いタロイモ畑。
前回(2004年10月)に案内してもらった場所である。
前回はタロイモが一面に葉を広げていたため分からなかったが、今回は乾季の時期で土が乾いた状態。まだ畑に種も蒔かれていなかった。

周辺を探すと、すぐに遺骨と思われる骨が見付かった。
周囲で牛が放牧されているが、牛の骨であるわけはない。畑の真ん中で行き倒れる牛が、こんなにいるわけがない。
人骨だと思う。

村人(現60歳前後。ポルポト政権時30〜40代)が
ここには案内したがらないのと、「もうここには遺骨はない」と繰り返すので、
逆にまだ遺骨があることを知っているのではないかと疑いを持った。


2005年6月調査へつづく




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