< 糟谷磯丸 >

「歌聖」といわれ、「無筆の歌詠み」とよばれる糟谷磯丸(1764 〜1848)は江戸後期の人である。

 

 

< おことわり >

 
 ウェブページ上に磯丸についてのまとまった紹介がないのを、かねがね寂しいと思っていた。参考にしたのは「新編 磯丸全集」(昭和14年発行、愛知県教育会)。あいにく、わたしは歌についても文学においても全くの門外漢である。この項はいずれ本格的な紹介が出てくるまでの ”つなぎ”としてみて頂きたい。

 磯丸の歌については抜き出すことも考えたが、私のフィルターを避ける意味で、各巻について全体をそのまま載せた。(出版後50年を経ているが、著作権上問題があれば指摘されたい。)なお、時間に余裕があれば、いずれ別の巻も載せたいと考えている。

 


1 草枕夢路の名残    
10 芝山國豊公御點
21 冬の詠草
22  いく千代もの巻
26 さく花の巻
33 京の家つと
64 はるはるとの巻
65 我も又の巻
67 磯の玉藻(一) 春
67 磯の玉藻(六)呪禁
67 磯の玉藻(七) 戀

 

< おもいのくさぐさ >

 

 磯丸は伊良湖の漁師。伊良湖明神に奉納された額面に書かれた古歌を人が読むのを聞くうちに、ひとりでに歌を詠むようになったという。やがて”無筆の歌詠み”として知られるようになるが、30代後半、読み書きを覚えるまでは歌を書き残すことができなかった。

 触れるものが全て黄金に変わるミダス王のごとくに、磯丸がみるもの、思うことは歌となって口をついて出る。”おもいのくさぐさ”がそのまま歌の形になった自然さがある。我々が考える歌の善し悪しと磯丸の歌は少し異なる。なぜならば”おもい”には強弱はあっても優劣などはないし、そして何より磯丸にとって歌は”文学表現”などではなく、くらしの中での”心のあらわれ”であった。

 手元の磯丸全集は66の巻と磯の玉藻と名付けられた詠草とで成り立っている。66の巻についても、各巻がそれぞれ何かを表しているわけではなく、まさに草の束のあつまりといった風体である。

 宮中に上がっても普段のまま、女房が駆け落ちするときには荷物を持って送ってゆく。頼まれれば馬の病の治る歌や油虫よけの歌を詠んでやる。葛飾北斎 (1760〜1849) とほぼ重なる年代を生き、長寿を全うした。


 

< 歌謡 >

 

 近代に入ると世の中が合理的になって、言葉は意味伝達の部品のようになり、役に立たないものは居場所を失う。この傾向は近代短歌においても例外ではない。近代短歌が「合理性」と引き換えに、「詠まれる音の感覚」を失ったと思うのは私ばかりではあるまい。"こわばり" "唐臭い" 短歌も多い。

 序詞や枕詞が月並みといえばそのとおりだが、一方言葉のヒエラルキーは「光と闇」「ハレとケ」など背景に豊かな世界をもっているのも事実である。磯丸の歌のもつ ”やわらかさ ”、磯丸の歌と近代短歌(の一部)との大きな溝はここにあると考える。

 なお、一部とことわったのは、これはあくまでも一般論であって、啄木などにはあてはまらないのは自明の理である。


 

< 江戸の情報ネットワーク >

 

 この頃、野村藩主戸田氏宥の家臣で井本彦馬常蔭という人が、伊良湖に近い亀山村に住んでいた。井上彦馬は本居宣長の弟子で国学を修め、和歌をも嗜み、この地方の国学者であった。「無筆の歌詠み」の名が耳に入り、招いてその歌才を認め「磯丸」と名付けた。手本を与え添削などを行った。

 又この頃、吉田に林織江という婦人があり、京都の歌道宗匠芝山大納言持豊の門人であったが、和歌を学び俳諧もよくした。この林織江68歳の時、伊良湖明神の参拝に出掛け近辺を周遊する。この時、現地で供にしたのが磯丸。この時の「紀行・伊良古之記」で芝山大納言に磯丸のことを知らせる。その後、磯丸は芝山大納言に招かれ、宮中へ上ることになるのだが、交通、通信制度が充分でない時代に、渥美半島の先端に住む一人の漁師の情報が同好のネットワークを通じて、全国的に伝わって行くことは興味深い。

 磯丸の歌碑は信州下伊那郡山本村や奥三河作手村、額田郡宮城野村など三河文化圏一帯に残っている。磯丸が有名になると、人も伊良湖へひんぱんに尋ねてくるようになる。そのために村人が新しい座敷を建ててやったという。この時代、私が想像した以上に人や情報が動いているようだ。

 


 

< 当時の常識 >

 

 「たみはほねひらけるみよは地かみにて君は扇のかなめなりけり」

 

 この歌は将軍に謁したときに詠んだとも、芝山大納言家で詠んだともいわれている。最初に磯丸の歌才をみとめたのが井上彦馬だったというから、国学の影響はあったことだろう。しかし封建時代、それも辺境の地の一般庶民にまでこのような思想が行き渡っていたことに驚く。情報が限られていたことで、かえって骨太の思想が形成されたと考えられなくもないが。

 

 

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